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三代続いた親子の確執 その6

戦地から帰ってきた夫の酉蔵は、36歳になっていました。長い軍隊生活が身についていた酉蔵は、子どもたちへの躾も軍隊様式で厳しくしていました。

ここで私たちの結婚の経過について、語っていこうと思います。以前、話したように、酉蔵と私(シゲ)は、舅・姑のそれぞれ甥・姪の関係であり、
舅・姑に子どもができなかったため、舅・由松が甥・酉蔵を養子に迎えました。

当初は、私の妹(ヒデ)と縁組させる予定だったのですが、奉公先での働きぶりをずっとみてきた叔母は、私と酉蔵を縁組させるように、由松に相談したそうです。叔母は家事全般をやってくれる嫁件女中が欲しかったのだと思います。妹はどちらかと言うと不器用なタイプでした。

実は、この結婚は由松夫婦にとっては、嫁と働き手を同時に手にいれるための戦略結婚だったと思います。あまり容姿の良くなかった私に比べ、18歳の酉蔵は、当時では相当背丈の高い部類で174センチのすらっとしたいで立ちで、顔立ちも鼻筋が通って美男子でした。

近所のおばさんたちは、よく噂していたものです。「深川さんのところの養子さん、素敵な美男子だね~それに比べて、嫁さんのなんて不細工なこと。ホント不釣り合いな夫婦ができたもんだね~」

こんな中傷はしょっちゅうだっでした。けれど、17歳の当時の私は、「誰にどんなことを言われても、酉蔵と一緒になりたい。そして、みんなから羨ましがられたい」そんな幼稚な発想だったので、実際に結婚できて妻として、入籍できたことが本当に嬉しかったのです。

その反面、当初酉蔵と縁組予定だった妹のヒデからは、ずっと恨まれていました。私と同じで酉蔵に憧れを持っていたに違いありません。お嫁さんの話が来ていたのに、ある日突然破談となり、しかもその相手が実の姉だったとすれば、恨まれて仕方ありません。

妹のヒデは、その後色んな男に騙されて、根無草のような人生を送りました。結婚することも子どもを持つこともなく、酉蔵が事業を始めた頃、八戸に戻り、私たちの仕事を手伝ってくれました。

けれど、心の底では私を許すことが出来なかったのでしょう。私たちは姉妹でありながら、最後まで仲良く暮らすことはできず、お互いをいつも罵る日々だったのです。

妹にひとつだけ感謝できることと言えば、私の子どもや孫たちは可愛がってくれたことでした。

さて、次回は、話を私たち夫婦の終戦後のことに戻します。




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