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思考過程を考える

 考えている時に自分がどういう風に考えているのか興味がある。どうしてもうまく考えられないから。

 できることに興味はなくて、うまくできないことに興味がある。できることはできるようになったらすぐに興味がなくなってしまう。こうやればできるようになるなってルートが見えた時点でも興味がなくなる。未来が見えた絶望というやつだ。なるべくみえていないものがいい。と考えてみたけれど、これは自分を理想化していて、うまくできることはそれはそれで気持ちい。運動とかギターとか。感覚的なことが好きだ。感覚的なことは言語化しなくていい。感覚に寄り添って反復練習すれば上達がわかる。身体の反射や反応、繰り返しで馴染んでいく感覚を追いかければいい。ここまで書いてきて、文章も感覚を追いかけて何度も繰り返して身体に馴染ませればいいんじゃないかと思った。文章は上達が見えにくい・・・・・・・のが問題だ。ある日うまく書けたと思ったら、次の日はへたくそになっている。それは自分の主観的な判断の問題なのか。そう思っているだけで、ほかの人が見れば別に何も変わっていないのかもしれない。ギターとか運動であればある程度ベースができあがるとそれ以上下手にはならない。だけど文章は違う。ベースを突き抜けて下手になる。万人に通じる方法論が無いから? いや、方法論が多すぎることが問題だ。文章は自由すぎるからこそある程度ルールが必要なんだろう。文体、構成、ストーリー、語り方。その定型のルールの中で上達したかどうかならわかる気がする。毎回すべての文体や書き方を変えていたらそもそも上達したかの比較ができない。上達したかどうかを比較しフィードバックをもらうためには、同じルール内で比べるのがいい。まぁそれもそれでつまらん気がするけれど。

 思考がわき道をそれた。考えていて好きなのがこの瞬間だ。思い付きが連鎖して、思考が思考が呼ぶこの感じ。飛躍し続けて最初に書こうと思っていたところから遥か遠くにいるとき、自分でも何を書いていたのかがわからなくなる。自分のコントロール外から何かがでてきたような感覚。これが好き。ギターを適当に弾いていて、おもしろいメロディやコード進行が出てくるときもこういう感覚になる。何かが生まれたって感じの喜びがある!

 というわけで考えることや書いたりすることがうまくできないから、こうやって毎日書こうとしている。毎日毎日どうやって書いてたっけと思いながら、書くための方法論や考えるためのツールを使って、自分が納得いく思考を求めている。思考はいつも靄がかっていて、明晰じゃない。うまく考えられない悔しさやいらだちが思考のベースになっているから感覚的に気持ちがいいわけじゃない。たまにうまく考える時ができた時はとてもうれしい。でもそれは自分から見てうまく考えられただけで客観的に対したことではないことがよくある。まぁでもそれは考えたところで仕方ないのでこれからもともかく書いていく。

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