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【短編小説】 僕の席は、保健室にある。

 地上一階。リノリウムの廊下を少し進むと左手に職員室、右手に保健室のドアが見えてくる。僕はその右側、保健室のドアをコンコンと二回叩いた。

「はい。どうぞー」

 優しく穏やかな女性の声が聞こえ、僕は「失礼します」と言いながらドアを開けた。

「おはよう。黒上君」

「おはようございます」

 養護教諭である道端先生に挨拶を済ませると、僕は保健室の右隅に用意された机に向かった。
 ぽつねんと一台だけ用意された簡素な学習机。『学校』と『机』と言われたら、教室に所狭しと置かれている状態を想像するだろう。こんな風に一台だけ除け者のように置かれているなんておかしいし、ましてや保健室に自分の机があること自体変だ。
 でもこれが現実だった。

 僕は高校二年生の時、精神疾患で不登校になった。
 突然起きた異変に、自分の事ながら意味が分からなかった。
 事態を呑み込めずあたふたしている僕に、父は「さぼってないで学校に行け」としつこく言ってきた。言われなくてもそうしたかった。
 でも学校に行こうとすると過呼吸が起き、そのまま意識を失うように眠ってしまう。目を覚ました時にはもう夕方で、下校時刻はとうに過ぎていた。
 僕は母と担任に相談して、高校卒業に必要な出席日数をギリギリまで使い、学校を休むことにした。「成績優秀者だったからこそ許された」と担任に言われ、僕は過去の自分に感謝した。
 僕が学校を休んでいる間、父からは「精神疾患なんてただの気の持ちようだ。さぼってるんじゃない」と毎日言われ続けた。死にたくなった。全て未遂に終わった。
 僕はようやく別の方法でこの状況を打開しようと思うようになり、心療内科に通うことにした。
 しかし、精神疾患とは普通の病気、例えば風邪のように「薬を飲めば治る」というものではないと担当医に告げられた。「ゆっくりと焦らず治療していきましょう」と言う先生の言葉に、僕は余計に焦りを感じた。
 とにかく今僕にできることは、病院に通うことしかないのだと言い聞かせ、父親の言葉に耐えながら日々を過ごしていた。
 しばらくして、担任から連絡が入った。「そろそろ学校に来ないと卒業できない」との連絡だった。
 通院の結果は芳しくなく、自分に変化は見られなかった。僕の焦りは加速した。
 僕は「もうダメだ」と半ば諦めかけていたが、担任からある提案をされた。
「保健室登校ならどうだ?」という話だった。
 僕は正直ためらった。
 保健室登校でも出席したことにしてくれることは大変ありがたいのだが、僕は「普通の生徒たちとは違うのか」と認めてしまうのが怖かった。
 そんな葛藤がありつつも、背に腹は代えられないと、僕は保健室登校者になった。

 僕は机に押し込まれた椅子を引いた。グガガッと音がなり、「しまった」と思って道端先生の方を見ると、別段気にした様子もなく、パソコンと睨めっこをしていた。
 僕は一度深呼吸をして、ゆっくりと椅子に座り、カバンを机の上に置いた。
 カバンの中には数冊の教科書とプリントが多数。あと筆箱。それを全部取り出して、カバンを机の横のフックにかけた。今必要な物だけを机の上に残し、残りの物は引き出しにしまった。
 保健室登校者に授業はない。個別塾みたいに先生とマンツーマンで授業を受けるわけでもなく、それぞれの担当の先生から課題として出されたプリントを解くだけ。分からないことがあれば尋ねに行ってもいいのだが、僕は職員室に入るのが怖いので、教科書を見てどうにか自力で解いた。
 授業はないが、テストはある。時期は普通の生徒たちと同じ日で、同じ問題。この時ばかりは「みんなと同じことをやっている」と思える反面、「だったら何で僕はここにいるんだ」と思いがせめぎ合って、自分を責めた。
 ちなみにテストで赤点を取ることはなかった。

 保健室登校をしていて一番心苦しいのは、保健室に他の生徒が訪ねてくることだ。
 保健室に生徒が出入りするのは当たり前のことだ。だが、入ってきた生徒が僕の方を見るなり、気遣うように声のトーンを落とすのが心苦しくて、たまらないのだ。僕はそのたび、今すぐここから逃げ出したいと思った。

 僕が課題をこなそうと机に向かった時、ドアがコンコンと鳴った。僕が来た時と同じように道端先生が「どうぞ」と答えた。

「失礼しますよ。お。今日も来てますね、黒上君」

 入ってきたのはひとりの男性教諭だった。僕は椅子を引いて立ち上がり、その人に挨拶をした。

「おはようございます」

「あ。これは丁寧にどうも。座って座って」

 本多先生は柔和な笑みを浮かべながら言った。
 見るからに物腰の柔らかそうなこの先生は、僕が保健室登校を始めた時から、僕の元にやって来ては世間話をして帰っていく、親戚の叔父さんみたいな人だ。
 初めの頃は「よほど暇なんだな」くらいにしか思っておらず、何となく相槌を打ちながら話を聞くだけだったが、次第に「僕のことを心配して来てくれているのかな」と思うようになり、僕から話かけるようになっていった。
 本多先生の策略に嵌まっている感じもしたけれど、この先生と話していると、心がとても安らいだ。

 本多先生は手近にあった椅子を動かし、僕の机の前に置いて座った。

「黒上君、聞いてくださいよ。娘がね、彼氏連れて来たんですよ」

「え? 本当ですか? 娘さんいくつでしたっけ?」

 その言葉にいち早く反応したのは僕ではなく、道端先生だった。本多先生はそれに苦笑しながら「二三歳ですよ」と答えた。

「紹介だけだったんですか? 結婚のお話とかは?」

 道端先生はそう言いながら、座っていたキャスター付きの椅子をゴロゴロと押して来て、僕と本多先生の間に隣に着席した。

「娘たちは紹介だけのつもりだったみたいですが、妻が彼を捕まえちゃって。それからは警察も顔負けの取り調べですよ」

「分かります。奥さんの気持ち」

 道端先生はそう言いながら首を縦に振っている。「この話には入れないな」と思った僕は、聞き役に徹することにした。

 しばらくの間、先生たちは話し込んだ。
 僕は途中から聞くことも止め、課題を終わらせることに専念していた。
 道端先生は腕を組んで難しそうな顔をしながらぼやいた。

「はぁー。私の子にもそんな時が来るのかなー。来るよなぁー。なんだか感慨深い話でした」

「いえいえ」

 先生たちは椅子に座ったままお辞儀をした。
 それから道端先生は僕に向き直って言う。

「あ、ごめんね。うるさかったね」

「いえ」

 僕が短く答えると、道端先生はパソコンの前に戻って行った。

「さて、今日は何の話をしましょうかね」

 本多先生はそう僕に問いかけた。ここからは僕の相談タイムだ。
 僕は前もって用意しておいたことを頭の中で反芻し、言葉にした。

「前にも言ったんですが、僕はこのままの状態がずっと続くんじゃないかと不安なんです。先の見えない真っ暗な道を歩き続けるのはとても辛いです」

 本多先生は椅子から身を乗りだし、膝に肘をつきながら僕の話を聞いている。膝の間にある両手は、指だけを合わせるようにして丸を作っている。これは本多先生の癖だった。
 僕は独白を続けた。

「特に不安なのが仕事です。普通の生活に支障が出ているこんな状態じゃ、ろくに仕事なんかできませんし、もし僕にやる気があったとしても、こんなお荷物を雇ってくれるところなんてないと思うんです」

 我ながら「悲観的な物言いだな」と思いつつも、「これが本音だから仕方ない」と自分に言い聞かせながら続けた。

「僕はこのままで大丈夫なんでしょうか? 将来ちゃんと仕事ができるようになるんでしょうか?」

 ちゃんと伝えられた気はしないが、これが僕の精一杯だった。
 本多先生は、姿勢を変えず目を瞑った。僕はその様子を見ながら返事を待つ。
 しばらくして、本多先生が訥々と語り始めた。

「そうですね……。まず、君が将来仕事に就けないことはないと思います。仕事って案外そんなものです。もちろん、良し悪しがありますが」

 椅子の背もたれに寄りかかりながら、本多先生は朗らかに言ってくれた。その言葉を鵜呑みすることはできないが、僕は聞きたかった言葉をもらえて素直に嬉しかった。

「でもそれは、今みたいにどうにかしようと悩みながらも行動をした場合です。悩むだけ悩んで行動をしなかったら、いつまで経っても仕事には就けません」

「はい。気を付けます」

「無理はせず、君のペースでいいですからね」

 うんうんと頷いた後、本多先生は少し上を見た。

「……人生に焦っていた時期、私にもありましたね」

 先生は苦笑して続けた。

「私が教師になったのは父の影響でして、父も高校の教師だったんですよ。そんな父の背中を見ているうちに、私も将来教師になるんだろうなと漠然と考えていました。案の定、他にやりたいことが見つからなかった私は教師になりました。そのことを父に報告したら、『大変だけど頑張れよ』と言われたことを今でも思い出します」

 僕はそれを聞いて、最後に父親から褒められたのはいつだろうと考えたが、思い出せなかった。

「私の教師としてのスタートダッシュは、我ながら完璧でした。父から色々教わっていたので、同期よりも仕事ができて、先輩教員からは「君が来てくれて頼もしい」と言われました。仕事を始めてから二年目には結婚し、受け持ったクラスも優秀な子ばかりで正直浮かれていました。今思えば恥ずかしい話ですが」

 本当に恥ずかしかったらしく、指先で頬を掻いていた。

「でもそんな慢心はすぐに消え去りました。私の一番の理解者であった父が、急性心不全で他界し、先ほど黒上君が言ったように、導のない真っ暗な道を歩くことになったんです」

 今の僕と昔の先生が重なった気がした。
 急に訪れた現実が受け入れられず、とにかくジタバタと必死に踠いてみるも、まったく先へ進まない現実。「確実に動いているはずなのに」と焦る気持ちが、痛いほどに理解できた。

「あの時は自分を責めましたね。これほどまでに自分の能力はちっぽけで、どれだけ父に頼って生きていたのかと」

 本多先生の顔に陰りが見えた。陽の空気を纏うこの先生には、似合わない顔だなと思った。

「もうここには自分の居場所がないんじゃないか、と思って仕事を辞めようかと思った時期もありました。でもそんな悩んでばかりの私に、妻が言いました。『大丈夫よ。いざとなれば私も働きますから』って。これを聞いた私は『何をやってるんだ』と自分を叱りました。悩むだけ悩んで行動せず、妻には心配かけて、職場には迷惑をかけてしまった。そこから私はくだらないプライドを捨てて、とにかく行動しようと、仕事に邁進しました」

 先生はそこまで言うと、何かを思い出したようにハッとなり、腕時計を見た。
「あ」と声をこぼした先生は、

「次の授業の準備をしなくてはいけませんでした。すみません、黒上君。私ばかり話してしまって」

「いえ。先生の話はとても好きなので」

「そう言ってくれると助かります。でも私は教師ですからね。授業はしっかり締めないと」

 それから先生は咳払いをしながら立ち上がり、再び話始めた。

「黒上君。君は他の子たちよりも少しだけ早く挫折を味わっているだけです。焦る必要はありません。今は君が立ち止まっているだけで、君の隣を通り過ぎていった人たちも、やがて今の君みたいに立ち止まる日が来ます。その時は君がその人たちの横を通り過ぎるだけです。もしその時、君に余裕があるのなら、立ち止まっている人の背中を押してあげてください。きっとモテますよ」

 今日一番のスマイルを見せた本多先生は、「では」と言って保健室を後にした。
 僕は課題のプリントを引き出しにしまうと、代わりに一冊のノートを取り出して、忘れないように先生の言葉を書き記した。
 少しずつ焦りが消えゆくのを感じながら。


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