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立見峠の怨霊-伝説が秘める因幡の戦国時代・2-

今回も、お盆にちなんで幽霊の出てくる伝説です。
鳥取市郊外の本高から宮谷に抜ける「立見峠」という峠があります。令和になった現在もなお、昔の峠の面影を残している峠です。
この峠には、戦国時代に無念の死を遂げた若き武将の怨霊が出没し、村人を脅かしたと伝えられています。

立見峠の怨霊伝説

1560年代中頃、因幡守護・山名氏から鳥取城番を命じられた武田高信は、因幡制覇の野望を秘めていた。
おりしも、守護・山名誠通(久通)は但馬山名氏との戦いに敗れて戦死してしまう。誠通には源七郎と弥次郎という2人の男子がいた。
高信はまず、鹿野城にいた山名源七郎のもとに美女を送りこみ、源七郎に毒を盛って殺害する。
次いで高信は、守護居館の布勢天神山城に拠った山名弥次郎を倒そうと、一計を案じて布勢天神山城の東方の出城・釣山城に攻めかかる。弥次郎は家臣が諫めるのも聞かず武田勢と戦い、武田勢はたまらず後退する。高信は頃合いとみて、あらかじめ忍ばせておいた伏兵に山名勢の後ろを遮断させる。この計略で、山名勢は四散し、孤立した弥次郎は武田勢に退路を断たれて取り囲まれてしまった。
進退窮まった弥次郎は、「雑兵の手にかかるよりは」と立見峠に西の山裾で自刃して果てた。
以来、立見峠には山名弥次郎の怨霊が出没するようになった。弥次郎の怨霊は、風雨の凄まじい夜に黒い馬に乗り、具足をよろい、白い綾布を鉢巻きにして、虚空2間(約4m)ばかりを轡の音も高らかに駆け抜けたという。
恐怖した村人は、峠に社を建て、無念の最期を遂げた弥次郎を供養したという。 <因幡民談記>

立見峠
宮谷側の頂上付近
頂上近くにある立見神社
山名弥次郎の霊を祀る
立見神社の本殿
山名弥次郎の供養塔
本殿の左脇にある
山名弥次郎の供養塔
立見神社の本殿と山名弥次郎の供養塔

「立見峠の怨霊伝説」の真相を考察する-伝説の時代を読み解く-

江戸時代中期の書「因幡民談記」が伝える立見峠の怨霊伝説を採録しましたが、一次史料の伝える史実と矛盾するところがいくつかあります。
まず、前項「幽霊薬」でも示した布勢天神山城関係の略史を、山名氏と武田高信に関連した史実も加えて、再掲します。

  • 1542年(天文11) 山名弥次郎豊數および武田高信が、田島にあった多聞山神宮寺に什物を寄進する(因幡志) ※一次史料ではないが、江戸時代後期に書かれた「因幡志」に山名弥次郎豊數(とよかず)なる人物と武田高信の名が表れている。

  • 1543年(天文12) 8~9月 但馬守護・山名祐豊が因幡に進出し、因幡守護・山名久通(誠通)を布勢天神山城に追い詰めるが、久通はこれをしのぐ。祐豊は重ねて布勢天神山城攻撃を指令する。(萩藩閥閲録)

  • 1548年(天文17) 但馬守護・山名祐豊は弟の山名豊定を因幡に下向させる。  ※これ以前に、因幡守護・山名久通は失脚、または死亡したものと思われる。因幡国が但馬山名氏の支配下に入ったことで、一時小康状態を保つ。

  • 1563年(永禄6) 3月 山名氏の重臣・武田高信が鳥取城に拠って山名氏に対して挙兵。

  • 1563年(永禄6)4月3日 山名豊定の子・山名豊数が鳥取城に拠る武田高信を攻める(湯所口合戦)。山名氏の主将・中村伊豆守が武田方の攻撃で戦死し、山名勢が敗退。

  • 1563年(永禄6)4月 山名豊数が、山名久通の遺児・源七郎を尊重する文書を発出。つまり、この段階で山名源七郎は生存している。

  • 1563年(永禄6) 12月 武田高信が山名豊数の拠る布勢天神山城を攻撃。豊数は大敗して布勢天神山城を放棄、鹿野城に退く。  ※『譜録』。確実な史料に布勢天神山城が表れる最後

  • [ 1564年(永禄7) 武田高信、詭計をもって布勢天神山城の山名弥次郎を多治見峠(立見峠)で殺害する ]  ※これは史実としては確認されていないが、この伝説のもととなったと思われる因幡民談記の「多治見合戦」の記述

  • 1564年(永禄7)7月 武田高信、山名豊数の籠もる鹿野城を攻撃  ※山名豊数が一次史料に登場する最後 

  • 1566年(永禄9)11月21日 尼子義久が毛利元就に降伏。月山富田城開城

  • 1569年(永禄12)9月20日 尼子氏の再興をめざす尼子党が因幡国岩井の2つの城に進出し、武田高信は毛利氏に救援要請

  • 1569年(永禄12)11月 因幡の国人領主(因幡毛利氏、矢部氏、丹比氏、伊田氏、用瀬氏)が武田高信から離反し、鳥取城を攻撃

  • 1570年(元亀元) 足利義昭を奉じた織田信長が武田高信に上洛を求める。高信は名代を信長のもとに派遣  ※織田信長も因幡国の主は武田高信と見なしていたことが分かる

  • 1570年(元亀元)2月 武田高信、毛利氏の求めに応じて伯耆国に出陣。高信はこれ以後も毛利氏の求めに応じて、伯耆国、美作国にたびたび出陣

  • 1570年(元亀元)5月22日 山名豊数の弟・山名豊国が尼子党と結んで因幡に入り、武田高信と戦う

  • 1573年(天正元) 織田信長の支援を受けた尼子党が因幡に進出

  • 1573年(天正元)8月2日 武田高信、甑山城に籠もる尼子党を攻撃して大敗。尼子党、高信の居城である鳥取城を攻撃

  • 1573年(天正元)9月 因幡国人領主の伊田氏、用瀬氏も尼子党に与して鳥取城を攻撃。武田高信、鳥取城を退去し鵯尾城に移る。かわりに尼子党が鳥取城に入る

  • 1573年(天正元)11月 毛利氏の部将・吉川元春、尼子党から鳥取城を奪還。尼子党、因幡から退去  ※その後、1574年から1575年にかけて私部城(きさいちじょう)や若桜鬼ヶ城を奪うが、最終的には毛利氏に追われて因幡を去る。因幡は完全に毛利氏の支配下に入る

  • 1575年(天正3)2月 武田高信の子・助五郎が不慮の死を遂げる。但馬の山名祐豊、吉川元春に高信の排除を求める

  • 1575年(天正3)3月 山名豊国、武田高信を鵯尾城から追放。高信は但馬芦屋城の塩冶高清を頼る。

  • 1575年(天正3)8月 毛利氏、武田徳充丸(高信の子)への家督相続を了承する。

  • 1575年(天正3)9月 武田高信、毛利氏の部将・小早川隆景のもとに家臣を送り、助命嘆願を行う。

  • 1575年(天正3)10月 尼子党の籠もる私部城が毛利氏の攻撃で落城。尼子党は因幡を去り、因幡は毛利氏の支配下に入る。

  • 1576年(天正4)5月4日 武田高信、不慮の死を遂げる  ※高信の没年については1573年説もあり。死因についても諸説あり

この怨霊伝説に関連している武田高信の挙兵から没落、死去までを記しました。1569年に尼子党が因幡に侵入して以降の因幡は、武田高信、山名豊国、但馬山名氏、尼子党、毛利氏、さらに織田信長も加わった混沌とした情勢になっており、大変興味深いものがありますが、その真相を探るのは本稿の趣旨ではないので、触れません。
1563年3月の武田高信の挙兵から、山名氏が布勢天神山城を退去する同年12月までの推移を注意深く見ると、次のことが分かります。

  1. 武田高信が布勢天神山城を攻撃したのは、一次史料で確認する限り、1563年12月の一度きり。

  2. 山名豊数が、山名久通の遺児・源七郎を尊重している文書が1563年4月付で存在していることから、武田高信に毒殺されたと伝えられる山名源七郎は実在の人物。そして1563年段階では生存している。ただし、その後に毒殺されたのかどうかは確認できない。

  3. 逆に、立見峠で自刃したと伝えられている山名弥次郎は、一次史料では存在が確認できない。つまり、山名弥次郎は実在しない人物か、武田高信と敵対した山名家中の重要人物になぞらえられた可能性がある。

また、前記の推移を見ると、注意の必要な点があります。

  • 1542年に、山名弥次郎豊數が武田高信とともに布勢天神山城近くの寺院に什物を寄進している。

  • ただし典拠が江戸時代後期に書かれた二次史料のため、この山名弥次郎豊數が立見峠で自刃した山名弥次郎と同一人物なのか、また、この山名弥次郎豊數が1563年12月に武田高信に攻撃されて布勢天神山城から鹿野城に逃れた山名豊数と同一人物かどうかは分からない。

  • さらに、1542年に寺院に什物を寄進した武田高信が、1563年に鳥取城で挙兵した武田高信と同一人物かどうかも分からない

いろいろとこみ入っていて、真実の解明に難渋する当時の因幡の、特に武田高信と山名氏を巡る情勢です。
あくまでなんの根拠もない推論ではありますが、怨霊伝説の元となった史実を推論してみます。

  • 怨霊伝説のもとになった戦いは、1563年12月に武田高信が山名豊数のいる布勢天神山城を攻めた戦い。

  • 山名弥次郎のモデルとなったのは、山名豊数の可能性がある。ただし、1563年の布勢天神山城の戦いでは山名豊数は落命していない。

  • 山名豊数は、翌1564年7月に武田高信が鹿野城にいる豊数を攻めたのを最後に、史料から姿を消す。この時の戦いで山名豊数は落命し、その死が山名弥次郎に置き換えられた可能性がある。

  • 一方で、山名弥次郎のモデルは、1563年12月の布勢天神山城での戦いで戦死した、山名氏の有力な一族または山名側の有力部将の可能性もある。

  • さらに、山名弥次郎のモデルは、1543年を最後に史料から姿を消す、山名久通(弥次郎の父とされる)の可能性もある。山名久通は「申の歳崩れ」と呼ばれる合戦で、但馬山名氏により討たれたという伝承もある。

  • あるいは、実際に一次史料に現れていないだけで、山名弥次郎は実在し、立見峠で無念の死(自刃もしくは討ち死に)を遂げた可能性もある。

伝説には、そのモデルとなった何らかの歴史的な事実があるはずです。立見峠の怨霊伝説のもととなった史実を考察してみました。

最後は、昔の面影を残す立見峠の画像です。

立見峠の頂上に残る石地蔵と道標
この近くに、山名弥次郎が自刃した地もあるという
立見峠の旧峠道 頂上から本高側
立見峠の旧道 本高側から頂上

<参考文献>
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行
・因伯の戦国城郭 通史編 著:高橋正弘 自費出版 1986年12月15日発行
・山陰戦国史の諸問題 著:高橋正弘 自費出版 1993年1月31日発行
・Wikipedia 「武田高信」「山名豊数」

次回予告 摩尼寺の道好和尚-羽柴秀吉の鳥取城攻め-

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