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あたらしい日々

朝、電気を点けたら浴室で大きめのムカデを発見した衝撃は大きかったけど何とか処理し、仕事に行って、特に誰かに当たることもなく3時間連続で授業をやり終えて、暑い暑いと言いながら帰ってきたら玄関で新しいムカデが死んでいた。
さすがに気持ちが折れるよね。

朝は浴室で凍るスプレーを吹きかけて殺し、一人では処理できないので妹に電話して叫び、見守られながら死骸を袋と新聞紙と袋に入れて外のごみ箱に出した際の、どうしても見ざるを得ない姿や、動きの止まったそれはもはや魚の骨のようであること、精緻に作られているからこそいっそう気持ち悪く、自分の目を半目の上さらに薄目にして事に当たったけど、すぐに視界にモザイクがかかるシステムはないのかまだこの世代では……! と、未来人らしくこの時代の古さに悪態をつくのは忘れなかった。気持ちが悪いものをそのまま直視しなければならず、その間は当人の単なる「忍耐」によってやり過ごすしかないというこの時代の我慢好きにはもういい加減うんざりなのだ。

少々取り乱してしまいましたが、新しく始まったお仕事のことを書こうと思っていたのでした。

私は、「文章を書き続けたい」ということと、「日曜日の夜、翌日の仕事のことを思うあまり死んでしまいたくなりたくない」ということと、「一人でしたくない」ということが希望で、働くにあたってはそれらの実現が絶対に必要だった。

そのためには、時間外の業務はもちろん、持ち帰りの仕事や過度な予習はできないし、職場や生活の中で一人でいることもダメ。
その場で調達したり、瞬間的に判断することによって、効率よく成果を上げることを目指さなければいけない。
「予習」や「授業準備」は、やろうと思えばどこまでも果てしなくやってしまうことができるし、言い換えればいくらやっても足りなくて、それはつまり、やってもやっても不安、というやつなのだった。


私は真面目で指導書フェチでもあるので(「指導書」というのは先生の教科書。教科書の教科書のこと。)、読みこんで取捨選択してまとめてさらに調べて恍惚とし、それを授業に組み立てて生徒の前にご披露する~どこで遊んだり笑ったりお得意のグループワークを入れ込むか~などなど……が、かつての私の「予習」だった。
つまり、自分の空いている時間すべて「予習」。
でも、それはもうやめようと思った。
かつてとは状況が違うし、私には他にやりたいこともある。そして、これが最も大事で、同時に私にとってありがたいことに、どうやら新しい場所では、色んな意味でそこまで求められていなさそうなのだった。

もともと担当していた人が病気で来られなくなり、代わりに私に声がかかったのだった。
知らない土地の知らない学校で、一日だいたい4つの授業をしている。
水曜日をお休みにしてくれているので、残りの4日間で詰め詰めなのは仕方がないのだろうな~と思える。
理由あって2つの校舎を併用しているらしく、私もクラスに合わせて日傘をさして行き来している。徒歩5分強。
めんどくさいし、「全員に不評」なのらしく、教職員だけ使えるエレベーターを共に待ちながら、「こんなところだとは思わなかったでしょう? ご愁傷さまです」と言われたりするけど、私は言われるほどには嫌じゃない。
諸々の不備や不足を抱えながら、<今あるもの>で、<今いる人たち>と、<できること>をやる、というのはいいと思っているし、こんな環境でなんとか頑張っているよね~私たち……というのはけっこう大事だ、ということも感じている。
言うまでもなく、「コロナ禍」の最中だ。できることには限界があるし、できなくても誰も責めることはできず、できるように何とか助け合うべきで、その基準は「コロナ以前」のものではないのだ。何が起きるのかも、どうなるかもわからない状態の中で、新たな「基準」を模索しながら、状況をよく観察しながら探ってゆくしかない。そんな中では、「理想の授業の形」も、「学びの形」もなさそうだった。指導書に書いてあるそんなことや、自分が今までやってきて成功したやり方ではもはやなく、目の前の人たちを見てそれに合わせていくしか方法はなさそうだった。そしてそれがきっと、本来の理想的な形……。
だいたい、マスクにマウスガードORフェイスシールドなのだ!!!
声は前に飛ばないし、その前に口ががっちり固められていて全然動かない。
つまり、『羊たちの沈黙』のレクター博士なのだー!!(って最初の授業で言ったけど、誰にも通じなかった。「人の肉を食べる人です……」とか初対面の人たちに向かって一人で言っていた。)
顔の下半分がわからないから表情がわからない。私は、自分がいかに顔芸に頼っていたのか、初めて知ることになる……。そして相手ももちろんマスク……。マスク対マスク……全員マスクの仮面舞踏会だ。仮面同士で知り合って、仮面同士好きになり、「これは」と思い定めた相手には特別に仮面を取って素顔を見せるのだろうか? そういう世界がやって来たのだろうか?  
真面目でピュアな私は最初、誠実を尽くそうと、素顔だけはお披露目しておいた方がいいのではないか? 別に隠すことでもないしな、オープンにしてさらけ出さなきゃ信用してくれないよ、とか思ったりもしていたのだけど、なんだか一方だけで思い詰めていてもまったく意味の無いことで、それこそ全然求められていなさそうだったので、すぐに撤回した。だから、生徒たちも私も、お互いの素顔を知らないままだ。

そうして始めてみたマスク対マスクの出会い&交流の感想は……
「別に……」だった!!
たぶん、みんなそう思っているのではないかな~と思う。
むしろ、いいではないか! と思っている雰囲気も感じる!
だって、顔の美醜や若さではかられ、嫌な思いや肩身の狭い思いをすることもまだまだ多いこの世代では、とりあえずの外見のジャッジから逃れることができて、何だかそれはまあまあ、悪くないのだった。
まさに、保護されている、ガードされている、といった感じ。マスクが守っているのはコロナからだけではなかった。不躾な視線や揶揄、現行の「美しさ」と「若さ」に重きを置いた価値観からも、「わたし」を守ってくれる。
映画館に行ったら、完全指定席で、両隣と前後を空席にした配置で「快適!」と言っていた友達が、「これが本来必要な距離感なんだな~と思った」と感動とともに話していたのを思い出す。
私たちは、とにかく距離を詰められ過ぎていて、「できるだろう?」とみんな同じ価値観のもと、同じタスクを課されていた。それを「無理!」と叫ぶ人はいたけど、そんなのは「弱い」と見なされて、みんなと同じことができるといいよね、と言われることが多かった。でも、もうその「基準」は崩壊した。私たちは一様に、無理ができない身体になった。本当は、こんなふうに強制的な形ではなく、人間の英知でもって理解し合い、実践していけたらよかったけどそれはできずに、こういう形になった。おそるおそる、様子を見ながら、どうだろう? と尋ね合いながら。
各学校で、夏休みの終わりの時期を判断したり、授業を開始したとしても短縮時間割を敢行するなど、さまざまに違っていて、それはとてもいいことだと感じている。それぞれ違うに決まってるじゃんって思う。同じ地域や県だから同じ……なわけがないのだ。目の前の人を見なきゃね。

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