「生きたい」と願うことは何よりも怖かった

50歳まで生きれるか分からない病気を抱えている。それはいつも、重かった。老後とか余生とか、自分にはとてつもなく遠いワードのように思えて、その年齢になる頃にはこの世にいない可能性の方が高いことが苦しかった。

どうせ、生まれて間もなく死ぬかもしれなかった命だ。その時点で終わっていたほうがよかったのかもしれないと思うようになり、生きたいと願うことを諦めた。

「生きたい」の重みを抱えきれなかった。それを願えば、その望みを持っている自分に気づいてしまったら、生きられない事実を突きつけられるから。その事実と、真正面から向き合わなければいけなくなるから。

そんな覚悟なんてなくて、苦しい気持ちを抱え続けるのも嫌で、私は生から逃げた。死ぬために生きた。いつ死んでもいいように生きていた。どこか自分の人生じゃないなと感じながら、死の準備をしていた。

生きたいと願うこと。死にたくないと思っている自分に気づくこと。それはすごく怖いことだ。口に出せない言葉で、出そうとすると泣いてしまう。自分の深い本音と向き合わざるを得なくなるから。ごまかしがきかないから。

でも、生を見つめてこそ、生を願ってもいいと自分を許してあげることでこそ、見えてくる道もあるのかもしれない。ちゃんと、私だと思える人生が贈れるようになるのかもしれない。

諦めながら生きるのとはまた違った苦しさがあるだろうな。でも、自分の本音に気づけたから、今度は死よりも生を見ながら生きてみたい。誰かともっとたくさん笑いたいし、自分の道をまっすぐ歩きたい。

怖いことだらけ。それは変わらない。けれど、怖いから貫く意味もあると思う。

私は、生きたい。

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