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私ってこんなに醜い人間なんです

思えば、自分という人間を自己紹介したことがなかったなと思ったので、つらつらとまとめてみる。

先天性心疾患として生まれる。単心室単心房、無脾症など病名がありすぎて自分でも不明。笑

物心つく前に2回の手術を経験し、風邪をひきやすかったため、お昼寝で風邪を引いて体に負担がかかることを避けるため、保育園は行かず、家でひたすら本を読む日々。幼稚園の頃には物語を書いたり、詩を書いたりするのが私のひとり遊びに。

その後、幼稚園に通うも、周りに上手く馴染めず。遠足などは必ず母親の付き添いがあった&私が属するグループにだけ先生が引率していたので、申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちがずっとあった。

小学校に入学してすぐ、上級生からいじめを受け、学校に行くのが怖くなった。校庭の隅っこに3人の上級生に追い詰められて「心臓病がうつる」とはやし立てられたことはずっと忘れない。いじめられていることを親にやっと言い出せて、先生に注意してもらえ、2人はその後、全く何も言わなくなったけれど、1人は卒業までずっと言ってきて本当に嫌だった。

その一方で、同級生はみんな優しくて、病気のことには誰も触れなかった。友達がいなかった私に「一緒に遊ぼうよ」と声をかけてくれた子は今でも大切な親友。階段を登れない私をおんぶしてくれる子もいたけど、誰かの力を借りないと普通の生活ができないことに申し訳なさとみじめさを感じた。

転機は小4の時。根治手術ができる肺の基準を満たしたので、フォンタン手術を受けた。この入院生活はかなり苦しかった。体には無数の管。食事・水分制限がきつかった。当時、フォンタン手術はまだ画期的だったので、今でも歴史はまだ浅くて最高齢の人でも50歳くらいらしいと聞く。だから、まだ、どれくらい生きれるか未知な手術。術後の経過は個人差が大きくて、私は普通に生活できているけれど、亡くなってしまったり、SPO2が下がってきて日常生活がまた困難になってしまったりする子もいると聞く。

手術を受けて、感動したのは階段を息切れせず、登れるようになったこととスーパーを歩き回れるようになったこと。当たり前であるはずのことが自分にとっては当たり前ではなかったから、朝に普通に目覚めることができて今日という日があることが本当に嬉しかった。紫だった爪の色がピンクになって、嬉しかった。チアノーゼがなくなって嬉しかった。「人生観が変わった」と告げた時の母の顏は嬉しそうで、私も嬉しかった。

でも、健常者と変わらない生活ができるようになったことで、違った悩みも出てきた。障害が理解されにくい。特に体育の教師からは毎回「本当にできないの」「サボってるだけなんじゃないの」って言われた。その視線が耐えられなかったのと、私も少し運動してみたいと思って、初めて体育に参加してみてもそれまで全く運動していなかったので、できるわけもなく。体育祭に出たけれど、リレーで迷惑をかけ、病気であることを知らない人からは当然「あんなに遅いなんて、手を抜いてるに決まっている」と言われ、その声を聞くのが苦しくて、期待に応えられない自分がみじめで一切、体育には出なくなった。

高校に入ってからは余計に体育教師からの視線が厳しかった。周りの子と同じようにメイクをしていても私にだけ「キャバ嬢みたいなメイクして。親の顔が見てみたいわ」と何度も言われた。障害を抱えていたら、おしゃれをしてはダメなのか。障害者は健常者が思い描くような障害者らしい姿で生きなければいけないのか。そんな思いが強くなった。でも、私が「障害があっても自分らしく楽しむ」をモットーにしようと思ったのは、この教師との出会いがきっかけだったから、今思い返せばいい勉強をさせてもらったのかもしれない。

進路を選択する時、頭に浮かんだのが臨床心理士だった。だから、頑張って推薦をもらって、犯罪心理学に精通した教授がいる大学へ行った。その人は獄中で犯罪者の精神鑑定も行っている有名な人。中学時代、私は友達をいじめから守れなかったこともあったので、人の痛みが分かる、苦しみを支えられる人になりたいと思った。

でも、その教授が行っていた活動の一環で、山奥でテレビもなんもない場所でひたすら自分の心と向き合う体験をした時、自分の背負ってきたものを乗り越えられなかった。結局、人を助けると言いつつ、助けたかったあの子は引きこもりになってしまっている現実や何よりも自分が助かりたいと願ってしまっていることに気づいて、ああ、こんなんじゃ人を救えないと思った。

体験学習の最終日、泣きながら夜空の星を見て「ああ、死にたい」「こんな自分じゃだめだ」と思った記憶は今も頭にこびりついていて、いまだに思い出すたびに泣きそうになる。

結局、大学は1年も経たないうちに中退。
私の感じてきた痛みを刻み込みたい。そう思って、大学中退からリストカットをするようになった。今でも印象に残っているのは、憧れていた教授に活動から抜けたいと言った時、何も言葉を発していないのに、「手首を見せて」と言われたこと。まるでそこにリストカットの跡があることを見透かしているかのようだった。「自分を大切にね。」その言葉が刺さったけど、どうやって自分を大切にすればいいのかが分からなかった。

就職活動もしたけれど、先天性心疾患を抱える私はどれだけ口で「できます」と言っても、まずは階段が本当に登れるのかという面接官の疑問を完璧に打ち消すことすらできなくて、採用されなかった。障害者枠での就職も考えたかれど、私は欲張りだったから自分にしかできない仕事をしたいと思い、手を出さなかった。

そうしているうちに中退直前からヤバかったメンタルは限界に。毒親育ちであることや自己否定感にさいなまれつづけてきたので、高校生の頃から精神科には通っていたけれど症状が悪化して、薬を大量に飲んで意識が朦朧としたまま誰彼構わず電話をかける日々を送った。家族は私の中で他人よりも信じられない相手だったから、ネットで異性を探しては連絡をし、会い、体を重ねた。寂しいから、辛いから側にいてほしかった。

「君は俺のことを好きじゃなくて、寂しいから側にいてほしいんでしょ?」もう名前も覚えていないような相手に当時言われた言葉は、今でも鮮明に残ってる。心を見透かした言葉だった。本当に本当にボロボロだった。罵声を浴びせられる家庭では過呼吸になってしまうのが日常で、頼るところが画面越しの相手以外なくて、誰でもいいから抱かれたかった。包み込んでほしかった。心を。

うつと社会不安症を発症した。まったく笑えなくなった。表情ってなに?感情ってなに?笑い方が分からない。飛び降りて死にたい。25歳まで生きたら死のう。そんなことを思いながら生きる日々。そこから救ってくれたのが、元旦那だった。ぬるま湯のような温かさで私を包んでくれ、私は息をすることができた。

その後、バイト先で勧誘されて事務職を経験することになった。でも、会社は家族経営のワブラック企業。社長のお気に入りになったら謎に給料が上がって、少しミスをすると給料が下がる。暴言が飛び交う職場は家と変わらないなと思い、うつの一歩手前に。このままではまた同じことになると思ったので会社を辞め、バイトをしながら結婚資金を貯めて、元旦那と結婚した。

それからは平穏だったけど、見捨てられ不安が発動して、元旦那に依存的になることも多々あった。話し合いができない私たちは喧嘩すらできず、それを溜め込み、金銭的な問題も抱えてしまい、離婚に至った。

ひとりで生きていく。その選択はすごく怖かったし、今でも怖い。文字で食べていけるかは、ずっと自分に付きまとっている恐怖。訳もなく涙が止まらない日もあるし、他人と付き合うのは苦手。人が苦手。でも、自分が見てきた世界を伝えることで誰かが少しでも「生きよう」と思ってくれたり、「希望はあるかもしれない」と思ってくれたらいいなと思う。

苦しいよね。辛いよね。死にたいよね。その感情はいくら抱いたっていい。辛さは自分にしか分からないし、分かってほしいとも思わないし、分かってもらえるとも思わないよな。でもね、生きててもいいんだ。生きててほしいよ。ボロボロでもなんとか生きてきたら、それほど大きくはないけど、小さな幸福と私は出会えた。きっと、あなたも出会える。苦しみも痛みも抱え続けたままでいい。背負えなければ誰かに預けてもいい。自力で頑張って背負ってもいい。どんな形でもいいから、生きていてほしいよ。あなたと話がしたいよ。あなたの人生が聞きたいよ。叫びも辛さも願いも、聞かせてほしい。そう思う。

臨床心理士にはなれなかった。でも、自分が傷ついてきたから、誰かの傷に寄り添うことはできるはずだ。それはフリーライターとしてでもあり、ひとりの人間としても。

「ゆあ」というTwitterの名前、それは死にたくてたまらなかったあの頃、憂鬱すらも愛せるようにという願いを込めて「憂愛」と自分につけたニックネーム。だから、その名前で呼んでくれる人がいるたび、呼ばれるたび、ああ、生きてるって思う。自分なりに頑張ってきたなって思う。周りにいてくれる方々に本当にありがとうといいたい。生きる意味を、自分を表現する場を与えてくれて、ありがとう。そのおかげで私は今日も呼吸ができるんだ。


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