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「妻」として見ない、あの人だから。

「子どものように遊び、戯れられる夫婦」。川端康成が思い描いていたという、その夫婦像を知ってから、そんな結婚ならしてみたいと思うようになった。

はじめの結婚のとき、私は家族である前に、妻だった。家事と日常をきっちりこなす妻の姿を求められているように思えたし、そうすることで自分の居場所を作った。

妻は、こうあるべき。結婚生活は、こうあるべき。そんな身勝手に作ったルールの中で夫婦をこなしていた。夫婦を演じていた。

きっと、私も気づかないうちに相手に対して、夫であることを課していたのだろう。妻と夫…。その顔が、自分の本来の顔を凌駕するようになったのは、いつからだったんだろう。

だから、全部崩れた。私とあなたである前に、妻と夫になってしまったから。家族である前に、妻と夫の役割がのしかかってきたから。

関係が壊れて、ひとりになったとき、川端康成のあの言葉に出会った。もう二度と結婚なんていう重い鎖で繋がれたくないと思ったけど、妻や夫、大人であることすら忘れて、遊び戯れられる夫婦生活というものが、もしあるのなら、もう一回くらい誰かとともに生きてみてもいいかなと思った。

そんな相手、いるわけねえよなとも思った。だって、私は大人なんだから。

だから、驚いた。くだらないことで笑えて、童心を見せられる相手がいて。妻ではなく、「私」として自分を見てくれる人がいて。どうでもいいことに真剣に向き合って、笑って、考えて、泣いて、時に怒ってくれる人がいて。

誰かと、もう一度一緒に生きてみたいと思った。私はまっすぐ歩いていくのが下手だけど、でこぼこ道を歩いていても付き合ってくれそうな、この人となら、私のままで生きていけるんじゃないのかなと思った。

呼吸がしやすい。完璧主義が少し、顔を潜める。妻として見ないあの人だから、私は私でいられる。

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