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マイノリティをどう生きるか - ASD/ADHD

今日はASD/ADHD(発達障害と呼ばれるもの)と、二次障害(発達障害などの一次障害を原因として、周囲からの理解を得づらい環境で繰り返し注意されたり不安な経験をすることで、自己肯定感が下がり、うつ病、不安障害、ひきこもり等の症状が発生している状態)に関連したことを書いてみたいと思う。

(私自身は診断を受けている訳ではないのでグレーゾーンであること、あくまで素人の洞察であることをご理解の上お読みください)

私にとって「ASD/ADHD」は、あくまで自己理解、変えられない、変わらなくていいというひとつのヒントにしているということ

そういう性質を持つ自分がぶつかって来た壁や模索してきたこと、「どう生きるか」「何が助けになっているか」ということが中心に据えたいことです。

タイトルにあるように、発達障害に関わらずマイノリティを生きている人は自己価値が極端に低いことが多いので、「自己価値が低い人がどう生きていくか」「マイノリティをどう生きるか」がテーマです。

自分を知る手がかりのひとつとして


ある時、ふとASDの性質を持つ友人たちから「あなたもそうだと思うよ」という話を聞いた。あまりそういうことを考えたこともなかったけれど、タイミングを感じて、いくつかの本を手に取ってみた。

読めば読むほど、自分に当てはまるものの多いこと。ずっと悩んできたこと、注意されてきたこと、それでも直せなくて困っていたことが、そこにはたくさん載っていた。

発達障害は「生まれつきの脳機能の違い」というのを見て、「変えられるものじゃないんだ」と思えた安堵感はすごいものだった。

1番気になったところは、女性のASDの特徴として「発見されにくい(周りから見てわかりにくい)」ということ、その理由として、女性のASDは「こうしたら受け入れられる」というのを理解して他人を真似るという特徴があることが本に書かれていた。

自分自身、擬態にすごくピンとくる。「これは自分の好きなことなんだ」と本気で思って突き進んでいると、実は誰かの期待に応えていたということが多々ある。人は多かれ少なかれそういうことはあると思うのだけど、その「本気で思い込む」という極端さがすごいので、なかなか気づくことができない。

そういうことを繰り返して生きていると、じゃあどれが元々の性質なのか、擬態なのか、複雑で本当にわからなくなってくる時がある。そういうこともあって、自分を知るひとつの手がかりとして、ASD/ADHDということをより知りたいと思うようになった。

(ちなみに私はADHD質が濃いめのASD混在だと感じている。)



困ってきたこと


生きる中で困ってきたことは「過集中」だ。といっても、過集中を「なんとかしないと」思い始めたのは過集中がすぎると体調を崩すという現象が起きるようになってから。それまでは、自分の中によくわからない存在がいるような?という違和感のようなものだった。

例えば子どもの頃友人に、ただの遊びとしてリフティングを公園で教えてもらう。だんだん面白くなってきて、ひたすら続けてしまう。友人が帰ってもやり続ける。自宅に帰って腿を見ると広範囲が内出血して真っ青でびっくりされる。

大人になっても、やりたいと思ったことがあると朝起きて寝るまで、14〜15時間同じことをずっと集中していたりする。やめることが難しい。そうなると食べることもどうでもよく、レトルトカレーを温めずに飲んだり、納豆と卵を混ぜて飲んだりして、適当に済ませてまた作業に戻る。

自宅のDIYをしていて、1階の広い部屋の珪藻土を塗るという時に、パートナーが1割、私が9割くらいのスピードで作業した日があった。身体が無いくらいの集中。眠る頃に手にものすごい激痛が来て、あわや救急車を呼ぶかというくらいの時もあった。

5年間にパニック症になってから、さすがに身体に意識を向けるようになって、呼吸の浅さとかにも敏感に感じられるようになったので、そこまでの過集中は今は避けられているけれど、ふとした時に一気にやりすぎる(限度がわからない)という性質は変わっていない。

その他、部屋が片付けられないということ。実家にいる時なんかは、どんどん部屋の中で服や物が積み重なっていって、床が見えなくなってくる。ある日「片付けよう!」と思うと、徹夜して片付けてしまう。

引き出しを出して、しまい忘れる。物を無くす。1つのことをやっていて違うことが目に入ると、前にしていたことを忘れてしまう。ケアレスミスも常時起こってくる。

困るというのは、性質自体というよりも、その性質から結局のところ身体を壊してしまったり、他人と関わる上での問題が浮上してくるということが、一番困ることだった。


障害か、障害ではないか

定型発達だから、発達障害だからと、区別するのも難しい面もたくさんあると思うけれど、それなりに周りに理解を得つつ自分でも工夫し、暮らしていける程度であれば「そういう性質があるね」ということになる

その性質によって生活に支障が出たり、人間関係でのトラブルが多発したりすると「障害」と言えると思う。

私の場合は、パートナーシップでも多大なトラブルが繰り返されてきたし、社会生活が難しかったり、二次障害であるパニック症が始まってからは、できないことを多々抱えている。

なので今のところ生きる上での「障害」になっていることは否めないなと思う。


一番のポイントは、自己否定してるかどうか


私の場合、育った環境の中でも、結婚した当初も「なんで〜しないの」とよく言われていた。例えば、「なんで出したものをしまわないの?」「なんで食器をすぐに洗わないの?」「なんで服を床に置くの?」などなど。

これについて、相手の関わり方を言及するつもりはない。私も逆の立場だったら、例えば自分の子どもの部屋が、色んなもので山積みになっていたら心配するし「片付けたら?」という訳で、それは1つの愛だしね。

そんな相手のことよりも、誰かに「なんで?」と言われた時に、「私ってこうだからさ〜」って笑えるような状態にあれば、問題にも障害にもなりにくい。なぜなら自分にとって問題ではないから。

でも私の場合は、「普通当たり前にできることができない自分はダメなんだ」「できる方がいいんだ」って自分で自分を責めて来た。極限まで自分で自分を責めている上に「なんで?」と言われてしまうと、爆発・崩壊してしまう。

生きていく為に、誰かに認めてもらう為に、愛される為に、元々の性質を責めたり変えようとする。変えられると思っている。でも変われない。

そういうことを繰り返していれば、生きることが辛くなってくる。だから大切なのは、自分で自分のことを笑ってあげられるかどうかだなって最近は思うのです。


マイノリティにも「普通」があることを知る


かといって「自己否定しない」とか「自分で自分のことを笑ってあげられるといい」というのは自己価値が低い人ほど難易度が高い。実際にそうするのは一生かけて積み重ねていくことなのかなという位のことでもある。

それでも、いわゆる精神疾患まで経験している自分でも、自分のことを笑っていけそうだなと思えるように今はなってきている。

なぜかというと、むやみに「変わろう」とすることを諦め、自分の性質を知ることで、自分に必要なことが少しずつ目の前に現れてきているから。


その中で「助けになったな」と感じていることは、やっぱり似たような経験をしている人、それを生きている人に触れていくことだ。

最近話した人が、自分は「なんで蓋を閉めないの?」ってよく言われるけど、「なんですぐに蓋をしめるの?」ってこっちは思う。って笑いつつ話してくれて。あぁ、少数だとしても「これが普通」という人が少なからずいるんだなっていうのは、とっても心が和らいだ。

「リュックのチャックが空いてるよ」ってよく言われるとか、ティッシュの最後の1枚を使い切ったのに先送りして「なんで新しいのに変えないの?」と言われるとか、そういう「あるある」を面白くTwitterに書いている人もいたりして。

そういうのに触れていると、ちょっと笑えてくるんだよね。自分のことが。そうやって自分で自分のことを笑える余裕ができてくると、相手に同じように「なんで?」と言われても、「はっはっは。またやっちまった〜」とか「もう少し経ったらやるね〜」とか、ポップに交わせる訳です。

やっぱり、周りの理解も必要だけど、何より自分の中で「問題」なのか「問題ではないのか」というのが、やっぱり大きな違いになってくるなと感じている。

そのままで居られる場所と完璧さの放棄


「マイノリティにも普通があることを知る」というのが、とても助けになったことを書いたけれど、もう一つは「変わらなくてもいい」という場所に少しでも触れていくこと。

これは発達障害とかそういうことに関わらず、自己価値が低い人はもちろんだけど、とにかく「頑張る」「変わろう」「目標に向かって」なんていう風にやってきたけど「なんか辛いな、虚しいな」という人にとってもすごく必要なものだと思う。

私自身「できないこととできることの差が激しい」ことに悩んできたし、「できる自分」がベースで、できない自分は「怠けている」と思ってきた。だからこそ「できないことを変えたい」と思って来た。

いつだったか、ケアレスミスも感情に関わっているとか、「自分を大事にしていないからだ」と厳しく言われたことがあって、「そうなんだ!変われるんだ!」と希望に思ったくらい。今思うとゾっとしてしまうけど。


もちろん、「変われる!」と思う時の希望の感覚もわかる。素敵な人、すごい人を見ると輝いて見えて「そうなれるかも」なんて思ったりもする。

けれど、今の私に来ている流れは、自分の性質をただただ知って、自分が何が好きで、何が嫌なのかという感性を大切にすることだったり、嫌だと思うことがあればそこから離れたり、

自分を愛せない時があってもいいし、弱いままでもいいし、傷つきやすいままでいいし、怒りや嫉妬も感じたっていいのだ、という、「完璧さの放棄」が生きやすさの秘訣なんじゃないかなって思う。

「自己価値が低い=このままではいけない=変わらなきゃ!」と思っている人には、「変われますよ」とか「自己価値を上げましょう」というものより、「変わらなくてもいい」という場に触れることが、実は一番変わる(生きるのが楽になる)のではと感じている。


場の力、人と関わる力


「そのままの自分でもいい」「変わらなくてもいい」というのを、1人で培うというのもいいのだけど、私は「場の力」を借りるのがとてもいいなと思っている。

「そのままで居られる場所」というものに参加した経験から、その良さをすごく実感しているから。

なにせ多かれ少なかれ「変わらなきゃ」「いい人でいなきゃ」という無意識に埋まっているその意識は、人から愛される為のもの。自分を本来の形から変形させるもの「そうした方が愛されるから」と思い込んでいるからで。

だからこそ、「そのままでいても大丈夫なんだ」ということを、人との関わりの中で感じられていくことは、思った以上に内側の生命の泉に触れられるような感覚になる。

ただでさえ「いい人でいる」というのを無意識にやってしまう人は、その上「変わりましょう!」「目標に向かって!」って自分に強いるのはすごく酷だ。

息が抜ける場所、そのままで居てもいい場所、へんな同情やアドバイスをされない場所、ある一定の正解に持っていこうとされない場所

そういう安全な場所を1つでも持っていくと、生きることが楽になる。

私は今そういう場所や人に助けられているし、いずれもう少し心身が回復したら、そういう場、コミュニティを開いていきたいと思っている。


そのまま生きられる、優しい世界を


「そのまま」というのは、外に対して頑なに自分を押し出すということではもちろん無い。自分で自分のことを「変えなくてもいいんだ」と自分で思えている状態のことだと私は思う。

そう思っていると、人に対しても「変わらなくていいよ」と思える。パワーゲームが人生から消えていく。

難しいテーマでもあるけれど、全員が○、全員が□になろうとするのではなくて、○は○のまま、□は□のまま、△は△のまま生きられる優しい世界を私は望んでいるし、生きたいと思う。

世界を変えるというよりは、自分と自分、自分とパートナー、友人、自分のつくっていく場、そういうところから優しい世界をはじめていきたい。

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