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差別をふんわり覆ってしまう残念な「映画の邦題」

今、改めてアメリカの人種問題が注目されている。

私たちが生きる社会には、色んな不平等があり、色んな差別や偏見が根濃く残っている。日本も例外ではない。これは残念ながら否定しようもない事実だ。けれど、日本では「なるべくその事実を見たくない」「差別なんかない」「まあまあ、落ち着いて」という風潮が強いように思う。どうも、差別や社会問題を前にしたときの居心地の悪さや他人事感が風潮としてあるような気がするのだ。そしてこの背景には、メディアで目にするメッセージが多分に影響していることが考えられる。

アメリカではドラマやリアリティショーで「この社会には差別という問題がある」ということが当たり前に描かれる。「白人の男性との間に生まれた肌の色の白い子供を連れた黒人女性が公園に居たら、周りの人に通報された」なんていうシーンもあれば(『Good Fight』)、黒人女性だけだと店主に冷たく扱われ、白人の恋人が登場すると途端にその店主の態度が変わるというシーンもあった(『This Is Us』)。ちなみにこれらのドラマのメインテーマは人種差別ではない。ただ、日常の要素として描かれている。

日本のドラマではあまりこういう描写はない。そればかりか、不平等や差別をテーマにした映画でさえ、なぜだかそれを覆い隠すようなふんわりした邦題がつけられる。なんだか情緒的な部分にフォーカスし、原題に込められた思いをぼかしてしまうのだ。

少し例を挙げたいと思う。

Hidden Figures:『ドリーム』

直訳すると、「隠された立役者たち」。これは、NASAで活躍した実在の黒人女性たちを描いたものだ。当時は有色人種は指定されたトイレしか使えず、オフィスのコーヒーポットにまで「有色人種用」というラベルが貼られ、給与体系にも公然と差別があり、また技術者になる要件として指定されていたのは黒人の入学が許されていない学校の講義を受けることだった。そうして黒人を差別する社会構造のなかで、3人の女性が人一倍の努力をして成果を出し、徐々に認められていく。原題のHidden(隠された)という部分に込められたのはそういうところだ。

しかし邦題では、この一番伝えたかったであろう部分を全部すっ飛ばし、なぜか『ドリーム』になった。これは単に夢を叶えるための美談ではなく、構造的な差別のなかでも諦めずに闘った話である。それがまったくわからないふんわりとしたタイトルになってしまった。

実は私は原題を知らずに観はじめ、冒頭『Hidden Figures』と出たときもそれが原題とは気づかなかった。しかし見終わって「ああ、そういうことか!」と気づき、『ドリーム』というタイトルに強烈な違和感だけが残るという何とも後味の悪い体験となった。ちなみに映画自体はすばらしい。

On the Basis of Sex:『ビリーブ 未来への大逆転』

こちらは現職のアメリカ最高裁判事、ルース • ベイダー • ギンズバーグ(通称RBG)の若かりし頃の物語である。原題の直訳は「性別に基づいて」。優秀な成績を収めながらも女性というだけでチャンスを与られてこなかったRBGが、法のジェンダー不平等の是正に挑む話だ。

On the Basis of Sex という言葉は映画のなかでもキーワードとして使われているにもかかわらず、邦題はこれまたふんわり系の「ビリーブ」。これも社会構造的なジェンダー不平等との闘いの話であり、決してただの美談ではない。

ちなみにRBGと言えば、本人が登場するドキュメンタリー映画『RBG』もある。邦題には「最強の85歳」という年齢を表すサブタイトルがついたのもとても日本的だし、「妻として、母として、そして働く女性としてー」という至極残念なキャッチコピーがついたことも物議を醸した。これでは「女性と聞けば気になるのが年齢・結婚・子供なんです」と堂々と発表しているようなものだ。これだけの功績のある人に対してもそんな物差しを適用するということにげんなりした。

12 Years a Slave:『それでも夜は明ける』

原題は「12年間の奴隷生活」。自由の身であった黒人バイオリニストが騙されて拉致され、奴隷として売られて12年間を過ごす。これほど直接的なタイトルなのに、これまた「希望」にのみフォーカスした邦題だ。

当たり前だが黒人奴隷制度はとんでもない差別である。映画のなかでは所有物として扱われる様が描かれ、そこに人権などまったくない。映画の最後に出てくるように、彼は拉致され奴隷にされた人のなかでも数少ない生還者だ。奴隷制度そのものや奴隷として一生を終えざるを得なかった多数の存在を考えると、このタイトルはいささか軽すぎるのではないかとモヤモヤしてしまうのだ。

世の中に言葉を出す責任の重さ

ここで紹介した3本の映画はすべて実話をベースにしたものだ。人間には醜い感情があり、誰しも差別意識や偏見を持つ可能性がある。だからこそ私たちはそれを直視し、学ぶことで自らを戒め続けなければならない。これらの映画はまさにその機会を与えてくれるものだ。

ところが日本に入ってきた途端にその部分が薄められ、その機会が見つけづらくなってしまう。日本社会の「差別に向き合うのが心地悪い」という風潮に合わせて敢えてその差別の核心を突いたタイトルを外し、「希望」の風味を載せてなんだかポジティブっぽく聞こえる言葉にする。それによって、差別や不平等を正面から捉える言葉を目にすることが減り、さらに差別や不平等を直視しない風潮を生み出す。

私はライター・エディターとして、世の中に言葉を出す社会的責任を意識しながら日々言葉を扱っている。巷に溢れる表現は、知らず知らずのうちにそこに生きる人の意識に入り込み、アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)や無関心を生み育ててしまうからだ。その視点から言って、今回取り上げた「ふんわり表現」はとても残念でならない。

(Photo by Aneta Pawlik on Unsplash)

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