見出し画像

『The Bold Type』が描く、身近な人間関係における多様性の摩擦

最近の欧米の映画やドラマを見ていると、多様性への配慮がありありとわかる。その一方で、時間的制約からか、あるいはストーリーの本筋との兼ね合いなのか、その多様性が日常レベルで起こす摩擦については描かれていないことが多い。

たとえばNetflix映画『好きだった君へのラブレター』の主人公はアジア系だ。母親が韓国系という設定で、韓国の文化を継承していることはアクセサリー的に描かれているのだが、オレゴン州という西海岸のなかでもアジア系が少ない地域が舞台の割に、彼女が人種的要因で気まずい思いをしたという気配が一切ない。Netflixドラマ『セックス・エデュケーション』でもそうだ。多様な人種やジェンダー、性的志向が描かれているなかで、それらによる摩擦は限定的だ。これらの映画やドラマは高校生活を舞台にしたものということもあり、狙う視聴者層からあえて人種やジェンダーの摩擦を最小限に留めた「理想の世界」を描いている可能性はある。

多様な人物が共存しているのにもかかわらず摩擦のない世界は見ていて新鮮だ。同時に一種の嘘くささも否めない。なぜなら、摩擦がないことなどありえないからだ。人は誰しも、偏った考えを持ったり、他者との違いを否定することで自分を守りたくなったりする可能性がある。そのつもりがなくても、無知やアンコンシャスバイアスから知らないうちに他者を傷つける可能性はゼロではない。大事なのは、それらがまったくない世界ではなく、誰しもそれらを行ってしまう可能性があるということを認識できる世界だ。だから「私は差別などしない」と公言する人を私は要注意人物だと見なしている。

そんななか、その「違い」による摩擦をあえて描いているのが『The Bold Type』だ。これは雑誌『コスモポリタン』をモデルにした雑誌編集部で働く20代女性3人の友情を軸にしたドラマだが、ありがちな「恋も仕事も」的ガールズドラマかと思いきや、そうではない。その理由の1つは、冒頭で挙げたように背景が異なることで起こる人間関係の摩擦がしっかり描かれている点にある。

たとえば、主人公の1人であるキャットの恋人はアディ―ナという中東出身の女性で、ビザの更新タイミングにある。ある夜路上で電話に母語で対応していたアディ―ナは通りすがりの男性から「英語を話せ、ビッチ」と暴言を吐かれる。それに怒ったキャットは男性をパンチし、偶然通りかかったパトカーに連行されるのだが、アディ―ナは警官の到着前にその場を立ち去ってしまう。翌日、置いていかれたことに憤慨するキャットに対してアディーナは「そうするしかなかった」と言うが、キャットは「選択肢はほかにもあったはず」と返す。それに対してアディーナが「自分の立場では選択肢がない」と言ってはじめて、キャットはアメリカ人の自分には当たり前に保障されていることが外国人のアディーナには保障されていないことに思い当たる。

ビザで生活していると、警察沙汰に巻き込まれることは避けたいものだ。たとえ侮辱されても我慢してやり過ごさなければ面倒なことになり、最悪その国で生活する権利を失う可能性もあるからだ。このドラマが放映されていたトランプ政権下だと、中東出身者が余計慎重になるのもうなずける。そんな「弱み」から外国人住民は売られた喧嘩を買うという選択肢がなく不戦敗を受け入れるしかない。しかしそんな弱者の立場に思い至らず「売られた喧嘩を買うかどうかは個人の選択だ」と無邪気に考えてしまうキャットの気付きが描かれている。

そのキャットは黒人女性であり、人種的にはマイノリティだ。あるとき親友である白人のジェーンが新たな仕事に応募するも不採用となり、その理由が「多様性を推進するため」だったようだと知る。「自分の能力とは関係のないところで判断されて納得がいかない」と話すジェーンに対して、キャットはこう言う。「それは有色人種が日常的に直面していること。多様性推進の犠牲者になったと思うこと自体が白人の特権だよ。あなたは白人だらけの部屋に入っても何も感じないだろうけど、私は居心地が悪いよ」。

ドラマにはほかにも、銃をめぐる考え方や出身家庭の経済格差などの違いが出てくる。その多くはかつて『セックス・アンド・ザ・シティ』で描かれたような個人的な主義や価値観の違いではなく、社会的背景の違いに基づくものだ。また弱者と強者が固定的に描かれるわけではなく、キャットのようにある軸ではマジョリティになれるが別の軸ではマイノリティになるというように多面的に捉えられているのも興味深い。

正直、友人関係においてこうした違いに向き合うのはなかなかしんどいことである。それは恋愛関係においてもそうだろう。それは本質的に、相手のなかに潜む「他者を傷つける可能性」を指摘することになるからだ。

私自身、エスニックマイノリティとしてこれまで関わった友人や恋人の発言に違和感を持つことは数えきれないほどあったが、面と向かって指摘できたことは数回しかない。なぜなら、相手に遠慮していたからである。「マイノリティである私の気持ちや体験は、マジョリティである相手には関係がない。そのため、そんな特殊事例を出して相手を煩わせたくない」というふうに。別の言い方をすると、相手のことを信じて関係を深めようとしてこなかったとも言える。

一方、私はどちらかというと経済的には恵まれており、育つ過程で十分な教育や教養を身につける機会を与えられた。そういう意味ではこれまで「持てる者」の無神経さで友人を傷つけてきたこともあるはずだ。しかしそれを指摘されたことはほとんどない。傷ついた友人たちも、もしかしたら私と同じような「遠慮」をしていたのかもしれない。

しかし多様性のある社会の人間関係では、結局こうした会話は避けて通れない。「多様性推進」というスローガンだけを見ていたらピンとこないかもしれないが、本当に社会が多様化すれば、個人の人間関係も同質ではなくなる。その人間関係を本当に豊かなものにしたいのであれば、その摩擦を個人レベルで乗り越えていく努力は避けられない。

先ほども書いたとおり、それはしんどい作業である。相手を信じ、気まずさに立ち向かう勇気を持てるかどうかが、今後充実した人間関係を持てるかどうかを左右するのかもしれない。このドラマはあえてその摩擦を描いたことで、人間関係のリアリティやつながりの強さを見事に伝えていたように思う。

Photo by Andrea Cau

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?