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何のためにキレイになるのか

私は高校生の頃から化粧をし、パーマをかけ、ファッションに気を遣ってきた。モテるためではない。自分を守るためだ。

それは高1の時、あるクラスメイトが言った言葉がきっかけだった。彼女と私はほんの限られた時期だけ同じ塾に通っていたのだが、その塾の先生の1人について、彼女は容姿を揶揄する意味でこんな言葉を使った。

「あの朝鮮人みたいな人」

私は凍りついた。何も言い返せなかった。そして、その侮蔑的な価値観に対抗するのではなく、なぜかおもねる方向に進み、「キレイにしていたら差別されない」という変な発想になった。

先日、『Pachinko』という本を読了した。植民地時代に日本に移り住んだ在日朝鮮人家族の話で、アメリカではベストセラーになった小説だ。そのなかに、こんな表現があった。

For Koreans, this was especially important: Look clean and be well groomed.
(身なりを清潔にして髪や髭をきちんと調えていること。これは在日朝鮮人にとって特に大事なことだ)

上記は男性が男性について話す文脈だったが、この発想は高校生の頃の私と同じだ。見下されないため。その集団についたネガティブイメージを払拭するため。このメンタリティはマイノリティグループに属する人にとって決して珍しいものではない。

キレイにしているとそこそこモテるようになった。若い頃は注目されて浮かれていたが、それと同時に一種のモヤモヤがずっとついてまわった。ネガティブな動機でキレイにしているのに、その上辺だけを褒められることへの違和感。自分にはそれ以上の中身やストーリーがあるのにというフラストレーション。

しかし上辺で引き寄せていたのは他ならぬ私である。なぜなら、そもそも「見た目」で自分の境遇をどうにかしようと思っていたのだから。

そんな違和感を抱えながらも美容は習性となり、毎月のネイルサロン通いは欠かさず、定期的にサロンでのヘッドスパと髪のトリートメント、シミができたら皮膚科に行ってレーザーで取り、2か月に1回はフォトフェイシャルとビタミン導入、さらにはパーソナルトレーニングに通って筋肉もつけた。少し前は目の下のクマを隠すために脂肪注入しようかとも検討していた。もはやプチ整形の域である。こうやって羅列してみると自分でもちょっと引く。

自粛期間中、私は自尊心についてよく考えていた。もともと私は自己肯定感がとても低い。仕事はそこそこうまくいっているので自己効力感はあるものの、自分のことがあまり好きではなかった。その証拠に、自分の性格で嫌いな部分はすぐに挙げられるのに、好きな部分はなかなか思いつかなかったのだ。

私はいつも、「マジョリティにとって好ましい人」にならなければと思っていた。だから、人付き合いのなかでも「好ましい」と思われる言動を演じている部分が多々あった。高校の頃にクラスメイトが差別的発言をした時も、その後とても近い関係になった人にアイデンティティに関して無理解な発言をされた時も、すぐに言い返せず、それに迎合するような行動を取ってしまった理由はこれだ。

「自分を守るため」という動機は、つまり差別する側の価値観に合わせにいっているということである。本来、どんな見た目でも人を差別していいはずがない。これでは「いじめられる方に原因がある」と言っているのと同じだ。結局私は、本当の意味で自分を守れていなかったのだ。

私はじゅうぶん大人になり、食べていけるだけのスキルも身につけた。低かった自尊心は少しずつ高まり、「自分の性格の嫌いなところ」も自分の一部としてだんだん認められるようになった。だからもう、「認められるための美容」をやめたいと思う。

最近はすっぴんで外に出るようになったし、メイクも少し薄くなった。それに前ほど躍起になって筋トレをしなくなった。美容という鎧を外して、どんな姿でもしっかり自分を守っていきたいと思う。

Photo by kevin laminto on Unsplash

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