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平氏のビジネス (平家繁栄の経済基盤とは?)(知られざるビジネスセンス)

平家繁栄の主役として、平清盛(1118-1181)が有名である。平清盛とは、どんな人なのか?

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/平清盛

「日本初の武士による政治をした人」
「武力を基に、世の中のルールを変えた人」

あの織田信長も、自らを右大臣平信長と。もしかしたら、織田信長も平家のビジネスモデルを真似して、天下布武を行ったかもしれない。あの独創性の塊と思われがちな信長とて、完全なる独創的発想というものは存在せず、どこかの誰かの発想を真似、キュレーションし、その時代、時代に合わせた形にして、落とし込み世をおさめた可能性は高い。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/織田信長

まず、平清盛の時代には、世の中の変化が起こった。当時の武士の立場は低く、天皇や上級貴族の番犬として、身辺護衛や下働きがメインの仕事だった。そんな中、世の中の変化が訪れた。

院政

院政がとられることで、武士が院に雇われるようになった。院とは、天皇が余力のあるうちに引退し、自分の子供や孫に天皇の席を譲り、自らは上皇、法皇となり政治力を持つことだ。大抵、譲った天皇の席には、幼い子供や孫が当てられるため、事実上、院が実権を握る。院は身辺護衛のために武士を積極的に雇う。そこで、武士が政治の表へ出て来れた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/院政

❶正盛(祖父) → ❷忠盛(父) → ❸清盛(本人)                   (3代のバトンリレー)

清盛一代で富を蓄えたのではなく、三代のバトンリレーで富を築いた。

❶祖父、正盛

白河上皇に土地を寄進、見返りに従四以下の位を与えられ出世。平家の地盤固めをした。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/平正盛

❷父、忠盛

博多港に目をつけた。日栄貿易(明州⇆博多)博多に住む宋の商人と取引を行い、唐物や書物を輸入した。当時の唐物(白磁)は、上級貴族達の憧れ。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/白磁

蓄財のカラクリは、日栄貿易で輸入した唐物を上級貴族へプレゼントその見返りとして、国司任命。恵まれた土地を与えられた(美作、備前、播磨、越前、尾張)→石高の豊かな土地の収入をへて莫大な財産正四位上の位を与えられた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日宋貿易

❸平清盛

39歳 保元の乱(1156) 朝廷内の権力争い

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/保元の乱

↓3年後 

42歳 平治の乱(1159)ライバル源義朝を破る

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/平治の乱

※ 平治の乱が起こらなければ、平家は、公家から上にはいけなかった。そして、この乱で勝った平家のもう一つの戦利品は、貴族達が武士の武力を無視できなくなった。

武士は、初めて自分達が持つ武力という力に気づいた。

時代背景として、これまでは、武力に力があるとは、知られていなかった。実際、中国の古典書を読めば、わかりそうな事だが、この時代に武士が中国古典書を読み、歴史から学ぶという風潮がなかったため、力の存在を知らされていなかった。→平氏や源氏は、世界的に言えば、傭兵。

まさに催眠術にかかっていた

強い人(武士)が、弱い人(貴族)に殴りかからない。これまでの平安時代の世の中はこれが当たり前だった。

中央集権国家

当時は、官僚(貴族)と常備軍(維持にコストがかかり、自然となくなる存在)

また、貴族は世襲制が一般的。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/中央集権

貴族は、情報を占有していた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/世襲

では、なぜ、平氏は、日宋貿易をできたのか?貴族達が、自ら貿易をした方が欲しいものを手に入れられるし、利益も独り占めできるのでは?

そもそも、貴族達は、貿易に自ら手を出したく無かった。先に書いた、貴族は世襲制が強いため、貿易で得た利益、まさに資本主義的な要素が強まり、下手に貴族が貿易にコミットすると当時の日本のシステムが壊れてしまう。そのために、自らの手で貿易をしたく無かった。

例を出すと、科挙。中国6世紀に始まった官僚登用試験。→これを止めたかった。実力主義を。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/科挙

そこに目をつけたのが平家だ。平忠盛(父)は、日宋貿易で輸出していたのは、伊勢の水銀(Hg)だ。古代から水銀は、不死薬、船底の防腐剤として需要があった。不死薬として、始皇帝が服用していたのも知られている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/水銀

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/始皇帝

更に、清盛の時代になり、貿易は活発化したが、ここで、清盛は日宋貿易について、不満を持っていた。ちなみに、当時の貿易港は、博多。博多は、大商人による合議制をとり、尚且つ、自治都市であり、宋との貿易は博多に駐在する宋人が仲介し、日本人と取引をしていた。言わば宋宋貿易。これでは、宋人の言い値で価格を決められてしまう。儲けに対して、日本人が介入できない。

宋人(明州)⇆宋人(博多)⇆日本人

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/博多

そこで清盛は、宋と直接貿易ができる港を造りたかった。51歳の清盛は出家し、新たな挑戦をする。これが日本経済を変えることになる。

大輪田の泊を播磨(神戸市)に造設

宋と直接貿易できる港をつくり、瀬戸内海の航路開発を行い、人工運河を作り出した。当時の大輪田の泊は、風が強かったが、人工の島(経ケ島)を作ることで見事、風よけをつくり港を完成させた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大輪田泊

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/経が島

日宋貿易の権益を日本側も関われるようにした

更に、

宋銭の導入

平安時代は、物品経済(米・絹)、貴族は買い物をするのに、米や絹を欲しいものと交換することで品物を手に入れていた。しかし、貨幣社会(宋銭)の導入は、貴族社会に変化をもたらす。

物品貨幣(米・絹)のデメリット

①重くて持ち運び不便
②長期保存に適さない
③価格にバラつきがある

宋銭のメリット

①価格が一定
②数えるのが簡単
③運びやすい

この宋銭の導入により、商取引が盛んになり、経済を大きく発展させた。逆に、保存する必要がなくなったため、米や絹の価値は下がり、大量に保存している貴族達は、大きく損をした。それが没落の要因とつながっていった。そして、平家一族の逆転につながる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宋銭

ここでのポイントは、

銭は便利というリテラシーがあった
銭が流通するだけの平家への信頼もあった
金属貨幣の普及は、物流コストが下がる
重要:港を最大の消費地の近くに置いた

なぜ、清盛は、大量の宋銭を輸入できたのか?

当時の中国では、宋銭がいらなくなった。紙幣ができて、加えて、宋の後の国家、ウルス、モンゴル帝国では、貨幣体制が、(銀・紙幣)→銀本位制へ変化した。そこに清盛は目をつけ、大量に宋銭を輸入した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/モンゴル帝国

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/銀本位制

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/紙幣

まとめ

このような、大胆な経済対策を清盛は、どこから作り出したのだろう?おそらく、「太平御覧」などの宋書から、国の経営、貨幣の仕組み、人身掌握術などを学び、取り入れる事で、あたかも新しいものを創造したかのように編み出した。彼は、真似する天才なのかもしれない。また、清盛は、時代の変化を捉え、経済力を蓄え、実行力を身につけ、平家の栄華を創り上げたのだと思う。悪者と見られがちな清盛だが、新しいことを成し遂げた優秀な経営者と思う。我々は、彼の成し遂げたきた挑戦の大切さを学び、実社会に活かしていきたい。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/太平御覧

参考動画、平清盛とお金 ↓

https://youtu.be/rhubaGqTFEk

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