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プラスサイズの私

今日作った食べ物たち

手作り2回目。カリカリハッシュポテトにするつもりが、モッチモチになったハッシュポテト。
味は美味でした。カリカリにしたかった!もうちょっと荒いみじん切りにすることと、片栗粉を入れすぎないようにしないといけないっぽいな。
今日もブルーベリーを狩ってきた。ヨーグルトと豆乳とブルベでスムージーを作った。
酸っぱすぎず甘すぎず、優しい甘さの夏の疲れた体が喜ぶ味。ヨーグルトは冷蔵庫にあったギリシャヨーグルトを使ったけど、普通のにしても酸味が立って美味しい。


ちょっとパンが破れてしまったけど、チーズ入り焼きサンド、グリルドチーズ。
ライ麦100%のサワードウのパンで作ってみたが、食感が重い。とてもギュッと詰まった感じで、ほんのりとした酸味のパンがチーズと合う。
お腹いっぱいになって満足した。今度また白いパンで作ろう。


職場に履いていくパンツを購入


「【接触冷感/UVケア/吸水速乾】サマーセットアップ ワイドパンツ」と言う
ポリエステル100%のパンツをネットで買った。XLサイズをおそるおそる(私はかなり体が大きい)買ったけど、ピッタリだった。入らなかったら送料負担で返品しなくてはいけないから心配だった。
サイドファスナー、色はチャコールグレー。これは重要なポイントだけど、汚れが目立たない色だと思う。かといって黒とは違う色。何色にも合いそうで、なかなか出せない色で、さすがオンワード。私には丈はちょっと短いけど、許容範囲である。イージーケアで、すぐ乾くしシワにならない。かといってジャージみたいでもなくかっちり見える。すごく人気の品のようで、再入荷のお知らせが出てすぐ買ったけど、その後早くに売り切れていた。今回の買い物で、人気の商品には理由があるのだと思わされた。私のように体が大きい人でも入るというのも人気の理由だと思われる。

小さい時から体が大きく、中学生の頃から着るものに悩んでいた。中学で身長は167cmあった。学年で一番背の高い女子だった。丈が足りないことが多く、そう言う服を着ているとふとした時に背中が見えてしまう。たまにお腹が痛くなったりすると、それを母親に「背中が出るものを着てるからお腹が痛くなるんだ」と指摘されて、「私が悪いの?」と嫌な気持ちになることになった。もちろん私のせいではなかった。
(そういうことが積み重なり、母親とはなかなか仲良くなれなかった。今も別に大好きではないけど、まあまあ良好な関係だ。感謝もしている。当時、母親も責める気はなくて、娘に着せるものがだんだんなくなっていく状況に困っていたのではないかと思っている。)

着たいものと入るもののギャップにも悩んでいた。可愛い服が着たいのに、サイズの制約があってパーカーやジーンズなど(ジーンズも好きではある)カジュアルなものに寄っていってしまう、そしてイメージまで「男っぽい」「かっこいい(背が大きいのも相まって)」と言う風になっていってしまう。今も、フリルのものとか、刺繍のもの、刺繍レースのもの、透ける素材のもの、変わった素材など好きで、着たいけれど、私のようなサイズの人にはそういうものは基本的にはない。

当時、「プラスサイズ」なんて良い言葉はなかった。別に太っていたわけじゃないから、友人たちも私が服に困っていることはなかなか気づかなかったと思う。今もそう言う節はあり、例えばストッキング一つにも困っているのだけど、そういうことは普通サイズの人にはなかなか分かってもらえない。

ZARAは労働環境・洋服の廃棄・環境破壊の問題など、問題を抱えた企業だと考えているけど、可愛いディテールの大きいサイズのものがある。他にも海外のファストファッションには倫理的に問題があるとは知っているものの、可愛くて大きいサイズのものがあるので、私にとっては有難い存在でもある。そのあたりにも、気持ちと購買行動のギャップが存在していて、ファッションが大好きにはどうしてもなれない。私にはオーガニックで高いものはたくさんは買えないのだけど、いつかファッション業界の倫理的な問題が解決すれば良いと心から思う。
しかし、可愛い・おしゃれな・工夫のある洋服は好き。ちなみに着物も好き。服に関する気持ちはとても複雑である。

大きいサイズの服、靴がないことは、多分、こういう気持ちをも芽生えさせた。それは、「社会は私を対象としていない。大きいサイズの私は、社会からのはみ出しものだ」という価値観だ。これはもちろん体が小さい人にも言えることだと思う。大きい人・小さい人・規格外の人・体が不自由で、服を選べない人。その人たちがみんな私のような価値観を持っているわけではないと思う。でも車椅子の人が座ったまま着脱可能な服を手に入れるのが今は困難で、最近身体に被せるだけで着ることができおしゃれな服を開発した人がいるというニュースを見たときに、私のように、自分のせいでなくおしゃれができず、苦労している人はいるのだと分かった。

「社会は私を対象にしていない。私は規格外だ。」こういう発想は「やばいやつ」を生むのかもしれない。別の言葉で言えば、はみだしもの。アウトサイダー。私はある意味アウトサイダーだと言う気持ちも実はあるけれど、結局なんとかやばいやつにならなかったのは、二人の祖母が私に服を作ってくれていたからかもしれない。小学校の入学式は祖母が作ってくれた黄色のツーピースを来ていた。人が自分のために作ってくれた服は、とても体にフィットして、心にも体にも気持ちいいものである。彼女たちが服を作ってくれなければ、自分はずっとおしゃれできない、思う通りの服は着れないということで、心の成長に重要な時期を、鬱々と悩み続け過ごすことになったのかもしれない。今、自分に服を作ることもしていないと思う。

ちなみに「ファッション業界」はイコール「社会」ではないのだが、ファッション業界が売れなくては成り立たないように、少なくとも日本社会は同じように動いている。売れなければいけないということはつまり、会社は多数決で多い方に合わせて商品、サービスを作っている。だから、私のようなものには服は提供されない(ユニクロは服を提供してくれる日本企業だ。ありがとうユニクロ。デザインは別に好きじゃないけど、感謝してます)。

それだから、私は外国社会に興味を持ったのかもしれない。私は日本ではマイナーな言語を勉強したり海外に遊びに行ったり、海外が好きで、外国人にも偏見を持っていない方である。最近はお給料も少ないしなかなか時間も持てず海外には行けないのだけど。

海外には私より体が大きい人がいっぱいいる、という感覚を持つことが精神的に良いのだろうと思う。体が大きいこと。これが私の外国への興味の理由の一端を担っているのは、面白いことだと思う。プラスサイズの私は外国に興味がある。


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