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ともす横丁Vol.21 父の日記

 父の日記を読み始めました。私が1歳の頃から始まり、ようやく十八歳を迎えたところです。

 父に生前、「日記どうしたらいい?」と聞くと不思議な顔をしました。嫌だと言わないこの表情は…もしかして読んで欲しいと思っているのではと思ったのです。

 父が亡くなって間もなく二年。人の日記を読むなんてとんでもないと思うのがごく普通なこと。しかし、父は語らなかった人。日記は自分の生きた証、作品のひとつと思っているのではないか。はっきり言葉にするのは稀でしたから、よくわかりません。その曖昧さの奥にある言葉にしない父の人生はどんなものだったのか辿ってみたい。なんとなく時が来たかも…と感じたとき、しんと人気のない実家の二階に日記を取りに行ったのです。古ぼけた棚から55年に亘る日記を取り出し、年代順に並べ、まあ最初からだよねと数冊家に持ち帰ると、日記には父の魂やそこにあった時代や風景が佇んでいるように感じます。

 父が日記を書き始めたのは、昭和41年、東京オリンピックが終わって間もなく。日本中が沸き立っている頃です。家には車もテレビもありません。父は私をよく自転車に乗せて動物園に連れていってくれました。一緒に風切って走るのが好きだったと思っていたのですが、違いました。当時、家に車はなく、父はまだ運転免許も持ってなかったんです。そんな時代でした。日記の余白には事件や事故、政治的な動き、訃報などが記載されています。もう遠い記憶の彼方ですが、その頃には飛行機事故が頻繁に起きて一度に大勢の人が亡くなったり、金に絡む犯罪は後を絶たず、思想信条に掛かる人を巻き込んだ事件も頻発しています。昭和の熱気、物の豊かさを享受しつつ、それを争奪するように社会に生き残らんがためのギラギラしたエネルギーが充満しています。父はそんな時代に背を向けて、文学の道を志していました。その崇高な精神は理想に燃え。一方で、一介の社員として社を代表して文章を書いたり、通訳翻訳したりと自分の好きで得意な領域を仕事として任されているのに意味や価値を見い出そうともせず。それどころか下卑なことと思い、感謝の気持ちもありません。満たされることなく渇望し、日々は続いていくのです。自分が何者かにならないと存在価値がないと思っているような。どこか社会全体が満ち足りることを拒否しているような気配さえ漂っています。

 足元を見れば、三世代同居で父の弟妹も一緒に暮らす10人の大家族。嫁姑や小姑、小さないざこざやいさかいは日常茶飯事。いろんなエネルギーがぶつかりあう世界に日常はありました。理想を掲げ続けることの難しさは想像に難くありません。
 私は日記に度々登場しています。そこにいる私ははつらつとして物おじせず、好奇心旺盛。そそっかしくて、負けず嫌い。私の小さい頃の自分に対する印象とはずいぶん違います。読んで蘇る朧げな記憶。いつのまにか記憶は修正されて、強烈な画面とともに印象に変わっていることを思い知らされます。

 父の日記に表れる過去の事実やそこにあった物語、日記の中に生きている「由美子」という存在。そこで私は生き生きと生きています。そして、母も妹たちもおじさんおばさんもご近所さんたちも。それぞれが大河のしずくとして生々しく荒々しく。とぐろを巻いたようなエネルギーの渦は、大河の流れとなってごうごうどうどうと今ここまで流れてきています。

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