「スイッチドボーナス」の話

語感が微妙な上に(Switchedの最後の子音はt音な気がしますが、スイッチド・ネットワークなどの既存の表記にならいました)恐らくは既存の語彙がありそうな造語ですが、「スイッチングコスト」の対義語にあたる概念が欲しい、と長らく感じていたのでその話をしたいと思います。(絶対、ちゃんとした既存の概念枠組があると思うので、どなたか教えてください)

コンサルティングの仕事というのは、何らかの形で顧客に変化を求めるものです。だからこそ、プロジェクトの形で関与する、とも言えます。従来のやり方(AsIs)から「より良い」とされる新しいやり方(ToBe)へと変化し、そこで得られる便益がそれにかかるコストよりも大きければ、そのプロジェクト投資は正当化されます。変わるものは、ビジネスプロセスかもしれませんし、業務システムかもしれませんし、利用する通信回線の業者とか間に入る問屋さんなどかもしれません。あるいは組織やマーケティング戦略なんていうより抽象的なものである場合もあるでしょう。いずれにしても、従来通りのやり方をしていれば、新しい価値が産まれることないかわりに想定外の問題などが生じるリスクは低いと言えます。

まず、スイッチングコストとは何か

新しいやり方へ切り替えること自体のコストをスイッチングコストといいます。新旧双方の定常運用にかかるコスト、いわゆるランニングコストの差はそこには含まれません。従来通りのやり方を続ければスイッチングコストは一切かかりません。また、ここでいうコストは必ずしも明確に金銭的に示せるものとは限りません。リスクを嫌うとか、新しいものに適応する手間を回避したがるとか、心理的な要素も関係してきます。(話が若干ズレますが、コンサルティングサービスというのは、当事者が抱えるこうした心理的要素を含むコストを無理矢理克服するために外部人材を入れて推進しようとする「お金で解決メソッド」に対応するものである、という側面があると思います)

新しいやり方に慣れるまでの学習段階での非効率については、慎重に新旧の対比を行う場合には考慮される場合もあるかもしれません。しかし、それはあくまで投資が回収されるまでの期間をどう見積もるかという議論においてであって、不安を克服し学習を行っていく過程をそこに現出させる、ということの効果自体を評価しているものではありません。

また、スイッチングコストの心理的側面を考えると、それが変化を起こす前に測定されているというという点にも注意が必要です。(心理的なコストは変化できることがわかったり、実際に変化してしまった事後には見積が変わってしまうと考えられます)

では、その逆とは?

「新旧それぞれの良し悪しを離れて、単に変えることそのものの(事前に見積もられた)コスト」がスイッチングコストだとすると、その対となるべき概念はどういうものでしょうか?

単に変えることそのものの嬉しさ? そういうものも確かにあるにはあると思います。新しもの好きの人や飽きっぽい人にはアピールする点もあるかもしれません。しかし、スイッチングコストというのは多くの場合ビジネスの場で使われる語ですので(個人消費のモデルを語る場合にも頻出しますが、それもマーケティング的なビジネス文脈であると考えられます)、嬉しさそれ自体は扱い難い概念ですし、「新」の方の付加的な魅力として考えておいた方が良いと思います。

コストの対となる概念はベネフィットです。もちろん投資判断の際には想定されるベネフィットを(リスク込みで)見積った上で、コストのバランスをみて評価するわけですが、ここではそういう事前に見積もられる期待効果ではなく、実体として得られた便益をベネフィットと考えたいと思います。変化(スイッチング)のコストを事前に見積もったもの、と、変化後に得られたベネフィットを事後的に評価したもの、を対比したいのです。基本的に、プロジェクトを通じて変化を起こした後に得られるベネフィットというのは、「新」自体が生み出すものを源泉としています。しかし、わざわざ「変えて良かった」となるからには、それが「旧」が生み出していたものよりも大きなベネフィットをもたらしているからだと考えられます。抽象的に語っているので分かりにくいと思いますが、得られる便益は同じあるいは小さいがランニングコストが下がっているので利得は大きい、というケースもここに含まれると考えてください。いずれにしても、「新」の優位性によって得られた新たなベネフィットが重要です。

しかし、事後的に実際に「これまでよりも良くなった」と評価されたベネフィットのすべてが「新」の優位性から来たと言い切れるものでしょうか? 実際には、新旧それぞれの中味とは関係なく、変化を起こしたことそのものが新たなベネフィットを生じてしまっている可能性があるのではないでしょうか。実際に事後的に得られたベネフィットから、真に「新」の優位性によるものを抽出評価するためには、この変化そのものが生んだベネフィットを差し引く必要があるはずです。それをここでは便宜的に、スイッチドボーナスと呼びます。

皆大好きホーソン実験

経営学の教科書などによく出てくる有名なホーソン実験という研究があります。リンク先のWikipedia記事にも「研究手法や結果の解釈をめぐって批判や異論も多く、知名度こそ高いものの、評価は定まっていない。」と書かれているくらいですから、これを間接的に引いて何かを言うというのも難しいのですが、今回の話に関係するところを簡単にまとめると「作業環境や報酬条件などを色々変えて生産効率を計測したが、条件を変える度に効率が向上した(後から以前の条件に戻した時も向上した)」というものです。これは特定の工場作業の生産性ですし、前述の通りそのまま一般化することができる結果ではないと思いますが、上記で考えた「変化そのものが生んだベネフィット」の一つの実現例ではあると思います。

外資系企業のITあるある

人材流動性が高い外資系企業の、特にITの分野で顕著な話だと思うのですが(すみません客観的なデータがあるわけではありません)、部門トップが入れ替わると同時に、その人が得意とする基幹業務アプリケーションやミドルウェアなどのプラットフォーム的な価値のあるパッケージソフトウェアを導入し、IT環境を大きく変えてしまい、そのこと自体を「手柄」とする。(そして、その手柄をひっさげて次の企業へ転職する) という風景をよく見ます。

それ以前に使われていたソフトウェアの生んでいた価値は往々にして過小評価され、新ソリューションの導入プロジェクトの最中に生じた問題の数々は導入が済んでしまえばむしろ「手柄」の一部となり花を添える存在となり、後から生じたベネフィットはたとえそれが厳密には旧ソリューション上でも実現しえたものだとしても新ソリューションの導入効果として喧伝されることになります。

実際、どんなに優れたソリューションでも要素技術の陳腐化や機材の劣化などの問題はあるので、式年遷宮のようにコストをかけてでも新陳代謝を意識的に行っていった方が良いという考え方はあります。(この喩えは、同じもので置き換えることが前提となりそうなので本当は良くないのですが、無生物は何かのきっかけがないと、置き換えが発生しないので)。問題は、有識者のポジショントークを経由せざるを得ないため、こうした変化そのものが持つ価値が潜在的なものも含めて、まともに評価されていないように見えるということにあります。

これからのデータ活用時代に向けて

データ利活用、データドリブン、データインフォームド、などキーワード的な表現は様々ですが、意思決定に対してこれまで以上に精緻化され定量化されたインプットが求められるようになってきています。これまでも、ここでいうスイッチドボーナスを包含してしまっているであろうポジショントーク、セールストークに対しては「話を差し引いて聞く」というような形で定性的にどんぶり勘定で評価に反映するということはやられてきたと思います。しかし、今後は個々の選択肢が様々な粒度と精度でデータにより飾り付けられた状態で提示されることになります。その時、どんぶり勘定での補正では間尺が合わなくなると思います。変化そのものが生じる価値というのは、変化のどさくさの中での個々人の試行錯誤が生むカオス的なもののアウトカムも包含している以上、簡単に定式化できるものではありません。しかし、せめてそういう要素が存在すること、そしてそれがどのような構成要素からなると見なしうるかというモデルなどを通じて小皿にわけた見積くらいのレベルにしておく必要があるのではないでしょうか。

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