「思考法」の存在価値 〜積み上げの実感を求めて

今回は、思考法というのは漠然とした「考える方法」ではなく、よりピンポイントに「考えが同じ所をグルグル回ってしまうことを避ける方法」と捉えた方が良い、というようなことを書きます。

はじめに

世の中には非常に多くの「思考法を指南する」書籍が存在し、近年でもその数は増える一方であるように思われます。聞くところによると「考え方」どころか「考え型」なんて表記もそれなりの支持を得ているそうです。しかし、書物というものは、大前提として考えることができないものにとっては完全に無価値なわけです。ということは、泳ぐことができない人に「泳ぎ方」を教えて泳げるようにする、というようなできないことをできるようにするために方法を伝授する、ということではなく、より上手くやる方法を示すようなものであると推定できます。しかし、考えるという行為により上手いとか下手というようなことがあるのでしょうか?

いったん「考える」を離れて、より上手くやる方法について考えてみる

より上手く、つまりベターな方法というからには良さが比較できる必要があります。例えば先述の「泳ぎ方」なのであれば、より速く泳ぐ、とか、より美しく泳ぐ、というような形でその行為自体の速さや美しさという基準を持ち込むことで比較ができるようになると考えられます。また、もしその行為がクリエイティブなものだった場合、その結果として生み出される創造物の特性に対して基準を設定することが可能です。「美しい文字の書き方(≒初動)」には、道としては書いている姿の美しさを含意した考え方もあるのかもしれませんが、一般的な解釈としてはその結果書かれた文字が美しいかどうかで判断されると考えて良いでしょう。

では「考える」の場合はどうか

ところで、考えるというのはクリエイティブな行為なのでしょうか? 少なくとも、考えただけ、の場合は物理的なアウトプットは皆無です。何も生み出されてはいません。物理的なアウトプットに拘らなければ、何かのアイディアを生み出している、という言い方は可能かも知れませんが、日常的な表現としての「アイディア」は思い付くものであって考えるものではない気がします。これが「思考法」ではなく「発想法」であれば、より良いアイディアを思い付く方法であるとか、より効率的にアイディアを思い付く方法、という解釈も可能かもしれません。しかし、「思考法」という言い方をした際に期待されているのは、単なる「思い付き」ではないと思われます。

そのような、ある種受動的に「降ってくる」と表現されかねないようなものではなく、より能動的に「磨く」「深める」「追求する」ような行為としてのニュアンスが、「考える」にはあります。そういう意味では、いわゆる0→1ではなく、1→10こそが「思考法」の領域と言えるのかもしれません。(アレンジもクリエイティブな行為だと思いますし、物理的なアウトプットを創造性の必須条件とするのはかなり偏った定義になってしまいますが、そこに程度の差がある程度存在すると見ること自体はそれほどおかしな枠組みではないと思います)

「考え方」に良し悪しがあるのだとすれば、それはクリエイティビティの結果ではなく、(泳ぎ方同様)過程の品質にフォーカスが置かれたもの、ということになりそうです。

「考え方」の上手さを決める基準は何か

0→1の領域であれば、ひとまず0か1であるかの判定は容易そうですし、例えば単位時間あたりにたくさんの1を生み出せれば、上手くやれてる感じがでそうです。しかし、「考え方」は1→10の領域だと考えられます。0→1というときには0.5などの1未満の小数を考えたり、いったん遠回りして負の数を考えたり、いわんや複素数の領域に思いを馳せたりすることはないと思いますが、1→10に関して言えばその過程を検討しないわけにはいきません。10に至るためには途中で2や3や5などを経由していると考えられます。そして、2は1より大きく、3は2より、5は3より、10は5よりも大きいことが分かっている必要があります。こんな抽象的かつ大雑把な議論では厳密な意味で必要ということは言えませんが、少なくともそれが分かっていれば「効率良く」10を目指せるということは言えそうです。言い換えると、思考が前に進んでいるかどうかを判定できる基準があれば、「考え方」を良くすることができるということでもあります。

逆にそれがわからないと、途中経過において自分が出発点より目標の方角に向かって進めているのかも判断できず、仮にランダムウォークの果てに何かの拍子にゴールらしきものに到達したとしてもその動きに再現性がありません。

「思考法」のネガティブな定義

考えるということを別の側面からミクロに考えてみると、たくさんの小さな「思い付き」を取捨選択し配列することであるとも言えます。思い付きがでてこなくても、閉塞感がありますが、良し悪しがわからなくて取捨選択ができなかったり、方向が見えなくて配列がうまくいってるのかがわからなくなたりしてしまうと、迷子になります。こういう状態では「何度も同じ所をグルグルと回っている」ような感覚に襲われます。同じ「思い付き」の部品が配置する場所によって新しい意味を持つことなんてこともよくある話なので、一度捨てたものの再利用を検討して、結局また捨てる、なんてことを繰り返すわけですね。

もしかすると本当に同じことを繰り返してるだけかもしれませんが、見る方向によっては同じ円周を辿っているように見えても別の角度から見れば螺旋階段を上昇している、なんてこともありえます。物の見方次第、基準の設定次第で、いつまでも進歩がない様にも、少しずつでも積上げが生まれている様にも見えるということです。で、あるならば、積み上がっている様に見えるための基準の設定の仕方がテクニックとして成立する余地がある。それこそが、いわゆる「思考法」の意義だと思うわけです。

何故こんな話をしているのか

世の中に「思考法」と言われるものはたくさんあります。それを学ぶことでより上手く考えることができるようになることを期待して、そういった「思考法」を勉強しようとする人は多いはずです。しかし、そこで技術的に提示されたステップをただなぞるだけで何かの成果が生まれるということはなかなか無いのではないでしょうか。成果が生まれないのはその思考法についての理解が浅く実践レベルにないからである、と捉えることもできるでしょう。むしろその方が一般的な、あるいは行儀の良い解釈だと言えるかもしれません。ですが、前述の通り、成果(アウトプット)の質を対象に上手い下手を図るのは、こと「考え方」についてはあまり適切ではない、とも考えられます。「思考法」については、結果を保証するものではなく、過程の体験を改善する程度のものである、と割り切った距離感を持って捉えることで、「思考法」が身につかないことに対する不毛な疲弊が少しでも無くなれば、結果としての成果もついてくるのではないかと思うのです。


(本当に指示語ばかりの抽象論になってしまいましたが、最後までお付き合い頂きありがとうございました)

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