[書評?]仮説とデータをつなぐ思考法 DATA INFORMED(田中耕比古)

友人の本の紹介です。ここ十年で知り合った人の中では突出した回数一緒に飲みに行っているので、友人と言ってもよいでしょう、多分。献本も頂いていますが、何しろ友人なものですから紙でも電子でも購入もしています。書評めいたことは自腹を切って購入した本に対してのみ行うべきである、というストイックな縛りが仮にあったとしてもギリギリのところでクリア出来ているのではないかと思います。まあ、友人が真面目に書いた本を貶すというのも通常は考えにくいので、評価についてどう受け止められるかはまた別ですが。と、いうディスクローズは良いとして、

友人ポジションからの書評っていう意味ではすでに過不足がなく素晴らしいものが公開されているんですよね。とりあえずタイトルだけはパクらせてもらいました。僕の感想もほぼこれにある通りです。ということで、ここでは蛇足だけにフォーカスして何か書いていきたいと思います。(あと、僕は最終学歴の修士課程の研究室が認知科学、つまりは心理学系で教授が文学部と兼任だったことを理由に都合の良い時だけ文系を名乗ることにしていますが、pythonもSQLも使うし、数学は決して得意ではありませんが本のはしがきに「極力数式を使わずに」とかって書かれるとかえって萎える程度の基礎的な知識はあるつもりなので、読者像として適切だったかというと微妙かもしれません。これもまた蛇足)

「考えるだけ無駄」なのはどんな時か

さて、著者である田中先生の一連の著作やBlog記事に通底する姿勢として、「考える」ことそれ自体を推奨するという点が指摘できると思います。もう少し世間的な表現でいえば、思考停止の拒否、です。つまり、世の中には思考が不足している、言い換えるなら、多くの場合、もう少し考える量を増やすことで状況が改善することが期待できるはずである、というある種の楽観がそこにはあります。

一方で、世の中には「考えても無駄」だと言われるシーンも多々あります。もしそれが正しい洞察なのであれば、そのようなケースにおいては考える量を増やしても自体は改善どころか少なくとも効率という面で悪くなっています。そう考えると(いや、考えてしまっていいのかという問題を扱っている局面ではありますが)、ある意味で田中先生の立場というのは「世の中で思われているより考えても無駄なことって少ないのでは」という投げかけであるとも言えるかもしれません。

話を簡単にするために、議論の対象を当たり外れがある問題や、勝ち負けのある勝負事のような領域にいったん限定したいと思います。この場合、「考えても無駄」というのは考えるという行為によって正答率や勝率が向上しない、ということを意味します。考えるというのはそれなりに時間やコストをかける行為ですから、それをしてもしなくても正答率・勝率が変わらないのであれば、それは「無駄」になるわけです。では、考えることはどういう時にこれらの向上に寄与しやすく(役に立ちやすく)、どういう時に無駄になりやすいか。例えば、勝負の相手との実力差がとても大きくて何をしてもその差を埋めようがなさそうな場合、考えることに意味はなさそうです。何をどう工夫して相手の動きを読んでも、そのことで結果が変わらないからです。また、運の要素が非常に大きい場合も、予測できることが少ないので考えても仕方がない、という結論に近づきそうです。しかし、こちらには一考の余地があります。というのは、勝負事が一回限りだった場合、運の要素が大きければそれですべてが終わってしまいますが、勝負が何回も続くのであればそこから運だけだと思われていたところに何かの傾向を見て取ることができるかもしれません。もしそうであれば、その構造を見極めることができれば勝率を向上させることができるかもしれません。

つまり、「考えても無駄」なのは、考えても結果が動かせないか、一回限り(か、極めて試行回数の少ない)の運勝負の場合だということになります。そして、田中先生のスタンスというのは、(少なくとも)ビジネスという領域においては、自分の意志でフィールド自体を選ぶ余地があることも含めて、考えてない人達が思っている程、結果が動かせない勝負ばかりではないし、一回限りでもない、ということになると思います。特に一回限りかどうかというのは重要なポイントです。一つ一つは一回限りの判断、意思決定であるように見えても、実は過去にも類似のものは多数あったりするわけです。そこに共通性を見言い出すことさえできれば、考えて勝率をあげる余地が生まれるわけです。だからこそ再現性が大事、ということになります。(田中先生、もし解釈が的はずれだった場合はご指摘下さい。訂正はできるかわかりませんが、少なくともツッコミが入った旨の追記はします)

データが使えると「考えるだけ無駄」な領域が減っていく

これはもう見出しだけで十分という気もしますが、上記の様に気持ち次第、考え方次第で、「考えるだけ無駄」に見えて実はそうでない領域というのは元々たくさんあったわけです。その上で、現代では、データが使える。このデータがあれば、一回限りに見えていたものものが実は何かの共通点を残しながら繰り返し発生している、ということが見えてきます。考える内容もカタくなります。その「データの存在によって考えた内容がカタくなる過程」が本書では丁寧に説明されています

ここだけ大事な話(なぜ本書は読まれるべきなのか)

世の中には、「もうちょっと考えてからやれよ」「思考停止するな」、という愚痴が溢れています。誰もがみんな他人、特に部下などの後進に対して「考えても無駄」だという勘違いをしているって不満を持ってるんだと思うんですよね。本書はそのようなシチュエーションに対するかなり直接的な処方箋になっていると思います!(直接的な宣伝)

仮の話

ところで、本書の中心には我々が大好きな仮説思考が置かれています。ここについてはもの凄く微妙な異論があるので、それについて更なる蛇足を継いでみたいと思います。

本書では、仮説には「アサンプション」と「ハイポセシス」の2通りがあるとして、その違いを検証によるカタさにあると定義付けます。個人的にはアサンプションにはあまり「仮説」という言葉を割り当てることはしません。それは前提や仮定であると考えます。(作業仮説という言葉を織り交ぜて説明されているので、それ程はっきりと食い違っているわけではないと思うのですが)

仮定や前提は、仮置きの値であり作業上人工的に持ち込まれる要素で、いったんそうであるとした上で議論や推論を経て「仮説」を構築する。その「仮説」をデータなどの事実と照らし合わせて矛盾の有無を確認する。矛盾が発見されない限りは仮定や前提がそれなりに正しかったと見なして、議論を先に進める。どこかで苦しくなってきたら、それまでに積み上げた仮定や前提のどこかに不適切なものがあったのではないかと疑う。……という過程の記述の方が、特に大量のデータを取り扱える環境においては自然なのではないかと思いました。

(……語るべきことはまだまだたくさんあった気がするのですが、なるべくはやく投稿するべきだという考え方のもと、大急ぎで書いてみました)

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