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心理的安全性の真田丸

議論の真田丸

世の中には色々な課題があります。注目を集めることができた課題の周囲には議論が巻き起こり、上手いけばその議論が深まった結果、その課題は解決され、世界はその分だけまた一つ良くなったりもするかもしれません。特に社会的な意味での影響範囲が広い課題の場合は、いくつもの観点の異なる矛盾した課題が乱立することもあります。いや、むしろ、その様に議論が交錯してしまうことの方が多いと言えそうです。その様な時、「課題○○の議論の本家本丸は××だ!」などと主張して重要だと思われる論点に議論を集中しようとする動きが生じることがあります。なるべく多くの人が、重要性について合意できそうなポイントで集中的に議論を尽くす、ということは極めて実践的ですし、その課題に対する関心が総体的に薄い周囲の人に分かりやすく状況を伝えることができるというメリットもあります。実際、大きな課題を巡る状況が改善する時には、そういった旗振り役と言われる人が活躍してることが多いのではないでしょうか。

しかし、多様な観点を無理矢理集約している、ということの歪みは避けられません。私(いや、私たち、とすべきかもしれませんが)の様なタイプの人間は、大勢の人を一つの方向に集約する、ということ自体に一定の忌避感を感じるので、無視されることになった論点がどうしても気になってしまう。そこで、「本家本丸」は何処か違うところで(もっとちゃんとしている素直な人達によって)議論されているだろうという前提の元、そこからはこぼれてしまってるであろう面白そうな、あるいは後々で効いてくる可能性がある論点をピックアップし、「真田丸」認定してしまおう、というテクニックを考えました。面白そうだし、大事かもしれないが、本家本丸でも一丁目一番地でもない論点、それが議論の真田丸です。(○○の真田丸でシリーズ化していきたい)

世は大安全性時代

最近では少し落ち着いたかもしれませんが、ビジネスの分野において「心理的安全性」というキーワードが世を賑わせていました。元々は心理学、それも組織行動学研究の分野で使われだした用語で「チームの他のメンバーが自分の発言を拒絶したり、罰したりしないと確信できる状態」という意味の言葉です。Googleで社内のハイパフォーマンスを挙げたチームの特徴を調べた実験で、心理的安全性がもっとも重要な因子であるとされてことにより一気に広まりました。拒絶や非難の不安がある状態では自由に意見が言えないので、せっかくチームを組んで多様な視点で物事を考えられるようにしてもその能力を活かすことができません。

他のマネジメント上の工夫や報酬モデルなどの切り口を差し置いて、この心理的安全性というそれまであまり重視されていないように見える因子が1番であったことの衝撃と、恐らくはそれぞれの人が自身の体験としてそうした不安のために発言をしなかったことがあるという経験をしていること(つまり、共感できる切り口であること)が、このキーワードがこれだけの注目を浴びた理由ではないかと思います。単に発言できなかったとか、したけど受け入れてもらえなかった、というだけなく、そういう経験は往々にして、ちゃんと発言していたら・ちゃんと受け入れてもらえていたら、自体はもっと好転していたはず、という悔しさを伴っていたりもしそうです。そのような後悔はたとえ単体では大した影響力の無い課題についての話であっても、あるいは実際には1度きりの体験であっても、本人には強い印象を残すことでしょう。「心理的安全性」は注目されるべくして注目されたキーワードであると言えそうです。

結果として、「心理的安全性」は今や全ての組織にとって極めて重要度が高い論点であると見なされています。心理的安全性を確保することは、単純に良いことである、と思われています。皆がそれについてどう捉えているか、立ち場による違いはないか、環境によって通用しなくなるような前提が置かれていないか、などの細かい論点はさておき、心理的安全性は無条件に追求すべき目標である、と事実上見なされているわけです。したがって、議論の本家本丸は心理的安全性とは何か、心理的安全性を追求すべきか否か、などではなく、「いかに心理的安全性を確保するか」ということになっています。

心理的安全性について語る人達の思惑

別に心理的安全性がそれ程良いものではない、と主張したいわけではありません。最終的にその推進を行うにしても、議論が大雑把な状態では結局十分な成果が得られないのではないか、具体的なレベルの細かい課題に直面した時、金科玉条として「心理的安全性は絶対善であるから」と主張しても物事がうまく転がっていくとは思えない、ということです。

仮に、ある人が「心理的安全性の確保を世に広く推進していかなければならない」いう前提を確信していたとして、その人はどのようなメッセージを発し、どのように行動するでしょうか。世の中に溢れている心理的安全性を無批判に礼賛している言説を見て、私は論者達は以下の様な理屈で正当化しているのではないか、と想像しました。(実際にはどれにも含まれない、ただなんとなく良さそうだから、みたいなものが大半かもしれませんが)

  1. とにかく「心理的安全性」という概念・ものさしをまだ知らない人に知ってもらう。名付けて意識させることで、行動が変容していくことが期待できる。

  2. 現状心理的安全性を損なっているのは組織や上司のパワハラ体質(≒絶対悪)なので、その力を少しでもそぎ落とせれば事態はそれだけ(単調に)改善するはず。

  3. もう1つの複雑な現代的課題である「多様性の尊重」などと相性が良いし、こちらはパフォーマンス改善のファクトという武器が使えるので、単に古いものを否定したいだけに見えない形で「価値観のアップデート」を迫る好機になる。

この辺りの理由であれば、その妥当性はともかくとして、意見としては理解できます。ただ、1. の観点では雑に言葉の意味とせいぜいGoogleなどの事例について語るだけで成立してしまうので、議論が大雑把になってしまいますし、2. の場合は逆に上司的なポジションから意見やフィードバックをすることにブレーキがかかってしまうという副作用が無視されてしまいます。3. は目標と手段の混同が生じる(あるいは生じさせてしまっているような印象を与えてしまう)リスクがありそうです。

いずれの正当化方針の場合も、心理的安全性の向上は「パフォーマンス改善」という経済的な指標における改善が確認された、ということに依拠している、という点は重要です。単に嫌な気持ちをする人が減る、とか、他人とは仲良くできた方が良い、などというマナーだとか倫理的な価値とは別に、そうする方が得だ、ということが強力な推進エンジンとなっているわけです。心理的、と言いながら、あまり人の心に寄り添った指針ではなく、経済合理性を求めるものだという点には注意しておいて損はないはずです。

そして真田丸、なぜ人は心理的安全性を語ってしまうのか

上記の3つの正当化の方向性でいうと、2. が一番ややこしい話になる(なっている)と思います。これは上司から部下に対するパワハラだけではありません。例えば技術力という形で情報の非対称性に守られているエンジニアが、直裁的過ぎるコメントを発した場合などに生じる人的な衝突などに対しても心理的安全性で説明しようとするケースがあります。

エースエンジニアの指摘が共感的な言い回しに欠けるため他のメンバーが攻撃されていると感じてしまう。そのために意見やフィードバックを発することが出来なくなっている……なんていう話はあちこちにあります。心理的安全性という新しい物差しを手にした人は、こういう状況を、そのエンジニアがチームの心理的安全性を阻害している、と解釈するわけです。そこで、「心理的安全性を向上させよう」ということになります。当該エンジニア個人に直接そういう指導をするにしても、チーム全体の方針として心理的安全性の向上を掲げた取り組みを進めるにしても、そのエンジニアの発言はそれ以前よりは自由なものではなくなります。恐らくは優秀な人材であると想像されるので、理想は、それまでと同等かそれ以上の意見やフィードバックを「他のメンバーが感じる心理的安全を損なわない形で」今後も発し続ける、というところにありそうですが、実際には「心理的安全を損なわない」様にする方法が分からないとか分かったとしても心理的なコストがかかる、と言った理由で理想通りには進まないことが多いでしょう。この時、エンジニア本人は、新しい心理的安全性の向上という方針の配下において自分の発言が受容してもらえるかどうか、という不安を抱えていることになります。つまり、その人にとっては心理的安全性が損なわれてしまうわけです。

これは、セクハラやパワハラで繰り返された、加害サイドからのテンプレート的な反応(逆ギレ)に近い構図に見えるかもしれません。セクハラ防止パワハラ防止ばかりが叫ばれては、自由に発言できなくなる! というやつです。ハラスメントの防止は、極めて倫理的な指針です。被害者の心に寄り添った立ち場であるとも言えます。しかし、前述の通り心理的安全性ブームが目指すところはそうではない(厳密にいうと、それだけではない、というだけですが)。

正当化の理屈を丁寧に追うのであれば、前述のエンジニアのケースでは、エンジニアが指摘やフィードバックを通じて行うチームに対する貢献と、他のメンバーが自由に意見を言うことによって実現する貢献の、それぞれを比較する必要があります。ここで注意が必要なのが、エースエンジニアの貢献はこれまでに実現してきたものをベースにそれが損なわれるというシナリオの形で具体的にイメージができる(ついでにいうと、何か矯正されることによってその人が不機嫌になることのデメリット、というある種のノイズも見えてしまう)のに対し、他のメンバーの不安が取り除かれることで生まれる価値(将来、重要なリスクを見逃さずに済む、など)はそうではない、非常に抽象的で不安定なものに見える、ということです。「二種類の人間のどちらか一方に我慢を強いる」というフレームの問題だと考えてしまうと、対称的で簡単に比較できそうにも見えるのですが、これは実際にはとても線引きが難しい問題です。具体的にイメージ可能なものと、そうでないものを比較することは個人の意思決定としても難易度が高いものですが、それを他者に伝えその判断の妥当性を納得してもらうことは非常に困難だからです。

恐らく、心理的安全性について真面目に考えたことがある人は、これまでの議論にある種のフラストレーションを感じるのではないかと思います。何故なら、これまでに想定した正当化のロジックや、その根拠である経済合理性というのは、表層的な解釈に過ぎないからです。事実、上記の通り、実際には比較が難しいものを比較できたかのように見なさないと成り立たないストーリーだったわけです。では、表層以外の土台となる要素には何がありえるのか。私は、正当化シナリオとして3つ挙げたものの最後、3.の多様性の理屈を反転させたところに答えがあると考えます。

  1. では「多様性の尊重」を推進するための道具として「心理的安全性」という経済合理性に裏打ちされたコンセプトを利用する、という形が想定されていました。「多様性の尊重」というのは心理的安全性よりもさらに抽象的なレベルで、現代の善と見なされています。それを実現するために表面的により納得がしやすいであろう心理的安全性という看板を使って啓蒙をする、というのはおかしな話ではありません。しかし、実際には心理的安全性の経済合理性というのは内部に細かく判定が難しい問題を含んでいました。これは、この詳細のレベルでは依存関係が逆転していると考えるべきだと思います。

「エースエンジニアの貢献よりも他のメンバーの貢献の方が潜在的には大きいことが実証されているから、いわゆる心理的安全性の向上施策は正当化される」のではなく、「いわゆる心理的安全性の向上施策を推進するという行為は、エースエンジニアの貢献よりも他のメンバーの潜在的貢献の可能性の方が大きいと仮定している、ことの現れと解釈できる」、ということです。優れた個の直接的で確認が容易な貢献よりも、その他も含んだ集団の見えにくい貢献の総和を常に優先する、という天下り的な価値判断が背景にある。これは概ね「多様性の尊重」と言いかえることができる「価値観」です。それは正当化を必要とする類いのものではない、ということです。

心理的安全性を重視するというメッセージは、表面的にはパフォーマンスを重視するという経済合理的なリアリスティックな装いで、人々を説得しているように見えるのですが、実際には、パフォーマンスをいったん度外視した次元で多様性を尊重するという価値判断をした、という意思の表明になっている、という構造がある。その計算高さと青臭さの多重構造が、人々の注意を引き、語る欲をかき立てているということなのではないでしょうか。

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