他人に責任感を求めることについて

若手に対する「責任感がない」とか「当事者意識が足らない」などという不満は、恐らく古今東西どのような社会でも言われていたことなのではないかと思います。もちろん現代でも、頻繁に出くわします。「責任感」に対する不満は、だいたい2つに分けられると思います。1つは、グループや組織のリーダーに対する他の構成員からみた不満です。言わば下からの不満です。冒頭にあげた、若手に対する、はこれにはあたりません。となると、2つ目は、世代交代や権限委譲などを見据えた新しい構成員や新しいリーダーに対する不満です。上からの不満と言っても良いかもしれません。

ところで、責任の話に関しては、「自由には責任が伴う」という使い古された言葉があります。個人的にはあまり好きではありません。自由も責任も言葉の範囲が広すぎるので「伴う」という関係の妥当性を評価するのが難しいと思うのですが、まるでこの言葉がすでに正当性が証明されたステートメントであるかのように振りかざしたがる人が多いように思うからです。(細かくみたら自明な正しさがあるとは思えないものを、勢いだけで振りかざす振る舞いがあまり好きではない、という純粋に好みの話です)

しかし、ここではあえて「自由には責任が伴う」ということを、この使い古された説教文句とは少し違う意味づけで主張したいと思います。

若手に対する不満、物足りなさ

まず、状況は、上からの不満、つまり若手に対する不満や物足りなさ、に限定したいと思います。典型的な状況としては、こんなケースが考えられると思います。

その仕事を始めてから数年が経ち、見習いから正規メンバー、さらにはサブリーダーと経験を積み、最近では案件のリーダーを任されるようになった人がいるとします。案件単位で言えば「責任者」と言えます。仕事はそれなりにこなしているようだが、言葉の端々に腰が引けたようなところが見られ、以前はチーム内の他のメンバーやリーダーの仕事を積極的に引き受けに行っていたが、今では自分の案件以外の作業にはまったく興味を持たなくなっている……

責任者なのだから自分の仕事に集中していて何が悪いのか、リーダーに成り立てならある程度仕事の範囲を限定したがってもしかたがないだろう、と思わなくもないですが、こんな時にも「責任感がない」という不満を持たれてしまうことはよくあります。新たにリーダーに抜擢ということですから当然期待も大きい状態でしょうから、そことのギャップということもあるかもしれません。(最近では、はじめから仕事の範囲を極力小さくしようとする、という形での若年層への不満もよく聞きますね)

ここでの不満はそれが責任感ということであれば、「リーダーという権限(自由)を与えられたにもかかわらず、他の同様の権限を持つリーダーたちよりも新リーダーは自己の責任を認識できていない」というような内容のものになりそうです。

自由がないから責任を感じにくい?

仮に他のリーダーよりも責任を認識できていない、というのが本当だとすれば、同じだけの自由がない、と考えるべきではないでしょうか。仮のこの環境ではリーダーという職位には明確に定義された権限があり、またリーダー間にその違いはない、となると、形式的な意味での権限は同じということになります。自由もそれにともなって同じだけのものが認められている「はず」です。

しかし、形式的な自由は、本人がそれを認識できていなければ意味をなしません。ドアに鍵がかかっていなくても、本人が軟禁されていると認識して外に出ようとする意思をもっていなければいつまでも同じ部屋に居続けることになるのと同様、自分が持っている権限を十分に理解していなければ、本人にとっては権限を持っていないのと同じです。

特に仕事の場においては、仮に権限が明示的に定義されている場合においてさえ、本当に字義通りの権力が実効的なレベルで与えられているのかは、定かではありません。経験が長ければ自分の意見が通ったケースの細かい積上げで実感を得ることもできますが、経験がない間はそれも難しいでしょう。もしかすると認められていないことを実質的な意味での越権行為として行うことは非常に危険です。したがって、そうそう安直に試し行動にでるわけにもいきません。(そもそも、自分の実効的な権限や影響力を推し量るために「試し」を行うこと自体、ほとんどの社会的場面においては避けるべきです。が、この話のわき道は細く長くそして暗く続きそうなのでここでは控えます)

責任感に不満を持っている側が、自由を伝えられていないのでは?

主張としてはこれです。多くの場合の上からの不満は、その上に立っている側が、自らが委譲した権限の全てを「委譲された側」に実感させることに失敗しているのではないでしょうか。「リーダー」などに任命するというのは権限の委譲として分かりやすい形式なので、それを行った時点で一定の自由を与えるということが完遂してしまったように思いがちです。しかし、与えたつもりの権限・自由の100%を相手は認識できていない可能性は十分にあります。例えばそれが60%だとすると、60%の自由に対応したレベルの責任感しか持たないというのはむしろ自然であると言えます。しかし、与えてる側は100%のつもりですので、差分の40%が不満になるわけです。

言ってみれば単なるコミュニケーションギャップなわけですが、仕事の場においてはこのギャップの責任は一般に上側が持つべきだと思います。自由や権限の実感は、自己効力感という言葉で言い換えても良いでしょう。自己○○感、という形式である以上、他人がどうこう言う類いの問題でもないように感じられるかもしれませんが、この責任感に関する期待ギャップの問題については、自己効力感を持ってもらうところまでを上側の責任と考えておくのが良いのではないでしょうか

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