メタな見栄張り、あるいは「真に受けてもらう」ことを巡る闘争について

(ある種の話し下手についての原因分析、のようなことを試みている記事です)

「話半分」の負の連鎖

話半分、という言葉があります。物事は誇張されて語られることが多いから、他人から聞かされた話は割り引いて受け止めた方が結果的に真実に近い、というような意味で使われます。こういう言葉がすでにあるわけですから、話し手の立ち場に立った場合、聞き手はこちらの言うことを半分くらいしか信じてくれない、という予想の上で話をしなければならないことになります。

語り手は常に倍の程度で語り、聞き手はそれを常に半分だけ受け止める、という関係が綺麗に揃えばそれでも(なんのためにそんなことをするのかという問題はさておき)コミュニケーションは成り立つわけですが、もちろん、実際にそのような状態が形成されることはありません。相手の真意が言葉とは別に判定できるわけではないので(それができるのであれば言葉はいらないとも言えます)、誇張の度合を正確に把握できるわけではないからです。また、語り手は主観的には誠実に語っているつもりでも持っている情報の精度などの問題で結局は正しくない報告をしている可能性もあります。かくして、我々は相手の発言の信憑性を値踏みしながら会話を続けるという連鎖にいつまでも囚われ続けるわけです。

ここで重要なのは、相手もまたこちらの発言の信憑性を評価している、ということです。さらに言えば、この「信憑性を評価している」という事実についても評価が可能です。「この人はこちらの話を話半分に聞いてるな」と思われたり、「この人は『この人はこちらの話を話半分に聞いてるな』と思っているな」と思われたり、ということが生じます。(中には、少なくとも自覚的にはあまりそういうことを考えて人もいるかもしれませんが)

お互いのこの話半分度合、メッセージの割引率ともいうべき値を推定し合うゲームはまじめに考え出すととてもややこしく、とても日常会話をこなしながら計算できるような種類のものではありません。となると、当然ヒューリスティックな方法でざっくりと答えを出すことになります。例えば、印象論、と言われるような話になってきます。このざっくりとした値を出すための戦略もまた、人によって違いがありそうですが一つには、「相手の内的な物差し(評価基準)を推定する」ということが行われているのではないかと思います。

内的な物差しとは

例えば、「このお店のピザがとても美味しかった」、という話を聞いたとします。聞き手は、例えば
・発言者が参照したであろう比較相手としての他のお店のピザの範囲
・発言者の食べ物に対する評価の適切さや自分の好みとの一致度合
・発言者がいまここで聞き手がその情報を真に受けた時に享受するであろう利害(情報提供者としての価値提供を評価されたい、そのお店のセールスをのばしたい、単に会話の間が持てば良い、などなど)
などを総合的に判断して、今この人がここで「とても美味しかった」というからにはそのピザはどのくらい美味しいと期待出来るのか、を判定すると考えられます。しかし、それぞれの軸に対しても、前述した割引の影響も考えながら推定するとなるととても大変です。

そこで、その人がピザや飲食店に対して持っているであろう物差しを仮に推定し、そこで「とても美味しかった」というラベルがついているレベル、を想像する、という簡略化したプロセスをとるわけです。

十分面倒臭い手続きだと感じるかも知れませんが、会話の中での細かい言葉の使い方などから、常に相手がもつ物差しを推定しあうという処理はお互いの脳の中で常に行われていると考えられます。さらに言えば、意図的かどうかはともかくとして、「ハイレベルな物差し」を持っていると思ってもらうために見栄を張るような言動をしてしまうことも日常茶飯事なのではないかと思います。例えば以下のようなアンチパターンがあります。

①褒めない人たち

最近では流行らない(と思うのですが)戦略として、「滅多に褒めない」ことで自分の褒め言葉の価値をつり上げようという戦略があります。希少価値の演出ですね。これはあまり洗練された戦略とは言えませんがよく見ます。昭和的オヤジのコミュニケーションスタイルとしてすでにステレオタイプ化してますし、やたらと異性を不細工扱いしてしまう小中学生なんかも(現代でも生息しているのかわかりませんが、昔はよくいました)自らの審美眼の価値をつり上げようとする残念行動と言える面もあるかもしれません。褒めないというだけでも機会損失なわけですが、その印象を手っ取り早く作り上げるために積極的に貶してしまう場合もあります。

②安直な謙遜家

次によく見かけるのが、謙遜から自虐に至る「自分に対する厳しいスコアリング」です。それなりに上手くできてることに対しても、厳しい評価をつけることで普段参照している比較対象がもっと高い水準にあることを仄めかすことで、実質的な評価のベースをつり上げることを狙うわけです。これは、他人を褒めないとか、貶すとかということとは違うので、①の褒めない人たちよりマイナスは少ないのですが、単調に評価を補正しているだけだと思われてしまうと、ポーズとして謙遜しているだけに見えてしまい、それこそその補正分を話半分に受け止められてしまう可能性があります。(かといって、個別の事情をよく分析した上で工夫を凝らしてセルフ駄目出しをし続けることが幸せに繋がるかも微妙な話ですけど)

③権威主義者

もうちょっと知恵を付けてくると、自分のメッセージだから割引の連鎖に巻き込まれるのだ、ということに気がついてそれを迂回しようとします。つまり、第三者の評価なら飲み込んでもらえるだろう、と。そこで、人脈・学歴・年収など、自分の外にある物差しと接続することで、信憑性を稼ごうとし出します。しかし、その接続の仕方はどうしても恣意的なものになりますので、仮に外部の物差しの信憑性については合意が得られたとしても、それと自分の物差しがどう繋がるかというところまではコントロールできません。結果的にやたら権威だけをアピールして発言の中身に自信がない人にみられてしまうリスクがあります。

アンチパターンを超えて

初級編としては、以上3つのアンチパターンが存在することを念頭に会話ができれば大きな事故は防げるのではないかと思います。自分の発言の信憑性をつり上げようとした結果、上記のどれかに当てはまるという印象を与えてしまうと逆効果になるわけです。

結局、相手の中に「こちらの物差し」のイメージを自分にとって都合の良い形で生じさせたい、それによって得をしたい、ということにつきます。つまり、どこまでいっても、相手の心象をコントロールしようとする行為です。これは直接的であれば直接的であるほど本来的に「失礼」な行動だと思います。なので、せめてパターンに嵌まることだけは回避していきたいですし、世の中の人達にも避けて欲しいと願います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?