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試し読み:デトロイトと私 2013年Before/After

A面:デトロイトと私 Before 2013

 数えてみると、もう20回近く訪れているはずなのに、私がこれまで撮ったデトロイトの写真は驚 くほど少ない。そして、その中に人が写っているものはさらに少ない。
 デトロイトにモータウンというあだ名がついたのは、自動車産業の街だったからだ。ベリー・ゴー ルディ・ジュニアが1959年に開業したレーベルを1960年にモータウン・レコード・コー ポレーションに改名したときには、車の街だったのだ。車業界が電車の開発を阻害したうえに、自動 車産業の最盛期に、街が外に際限なく広がったから、デトロイトは歩くことのできない街になった。 だからダウンタウンやミッドタウンの限られた地域以外で、人が歩いているのを見るときは、なに か辛い事情が漂う。デトロイトの街にカメラを向けるとき、心のどこかで人を写してはいけないよ うな気がしてきたのかもしれない。
 実のところ、初めてデトロイトに行ったときのことを、よく覚えていない。昔、よく友達が集まっ ていたブルックリンの巨大なロフトがあって、そこに住んでいたカップルの男のほうがミシガン出 身だったことで知り合った人間関係に、デトロイトと縁のある人たちがずいぶんいた。そのカップ ルがあるときブルックリンの生活に別れを告げて、彼の実家が所有するデトロイト郊外の畑に併設 された家に引っ越して行ったこと、そして、その周辺のミシガン出身の人と付き合っていたという 縁があって、彼らを訪ねたり、北部にキャンプに行く途中に寄ったりなどで、気がつけば、よく訪れ る場所になっていた。
 だいたいは一晩通りかかるというようなことが多かったので、夜到着して、バーやライブハウスに遊びに行き、翌朝には出発するといった程度の短い滞在だった。裕福とはいえないアーティスト やミュージシャンが暮らすエリアには、ニューヘイブンやバルティモアのような治安の悪い中都市 を思い出させるゲトー感が漂っていて、車を数分以上離れるときには、必ず荷物を持って降りた。
 ある夏の日、一緒にいた彼が「オレのデトロイト案内」というのに従って、ダウンタウンを訪れ たことがある。デトロイト・リバーの川岸にある公園の駐車場に車を止めて、水辺に出た。人影は 驚くほどなかった。「スケートランプに良さそうなのに、な」と彼が言った。こんな完璧なランプ があるのに、それを使う子供がいないのだった。子供どころか、人影もほとんどなかった。そのと きデトロイトが、ミシガン州の南東の水辺に位置していて、デトロイト川を挟んでさらに東はカ ナダだということを初めて視覚的に理解した。川の向こうすぐそこには、カナダの国旗がはため いている。こちら側には、 本社のシルバーの塔がキラキラと光を放ちながらそびえ立ってい た。天気がいい分、ゴーストタウンのようなダウンタウンがさらに薄気味悪かった。
 水辺を離れてダウンタウンの路上に車を停めて歩いた。窓ガラスが割れて、木の板で止めてあるビル がいくつもある。コーヒーが飲みたい、というと彼が困ったような顔で私を見た。「デトロイトにいるん だよ、俺たち。君の求めてるようなコーヒーはないと思うぜ」。しばらく歩き回ったけど、コーヒーには 出会わなかった。そもそも空いている店にもほとんど遭遇しなかったのだ。バーを見つけて入った。 バーの後ろには老女が立っていた。お客は私たちだけだった。安いビールを飲んで、車の旅に戻った。

(続く)

B面:デトロイトと私 After 2013

デトロイトのことをきちんと取材したい、と最初に思ったのは、MITメディアラボのディレ クターに就任したばかりのジョーイこと伊藤穰一さんに密着取材をした2012年のことだっ た。3歳から14歳までをデトロイト郊外で過ごしたジョーイは、悪いニュースばかりが続き、街の 各所で起きていた「アーバン・ブライト(都市の廃墟化)」をどうするべきか、先の見えない議論が 続いていたデトロイトに可能性を見出していた。

2013年3月、ミシガン州の知事が「緊急事態マネジャー」を任命し、多額の債務を抱えて 喘ぐデトロイト市による連邦破産法の申請は免れないのではないかという憶測が広がった。 2013年の終わりには、デトロイト市の財政赤字が4億ドル近くに上るとの報告書が発表さ れた。緊急事態マネジャーが債権者と交渉し、債務削減を要請していたが、結局、デトロイト市 は、年金の支払いを継続できなくなって、7月についに連邦破産法の適用を申請した。
その頃、WIRED JAPAN からリーマンショック以降のアメリカで、地方自治体にサービスを提供 するスタートアップを取材できないかと持ちかけられて、デトロイトに到着したのは8月6日だっ た。それまでと何も変わらない様子のデトロイト空港に降り立ち、まずはジョーイに紹介してもらっ たアクティビスト、シャカ・サンゴールに会いに行った。シャカに事前に指定されていた事務所は、 デトロイト市街と外周の「ネイバーフッズ」の堺あたりにあった。デトロイトの人たちは、いわゆる 市街部の外に位置する歯抜け状態になった住宅街を「ネイバーフッズ」と呼ぶのだ。

車を降りてシャカに挨拶をして、ハグをしたときに、「ああ、この人は人を殺した人なんだ」と思った。だから「僕がどういう人間か知ってる?」と聞かれたときに、うなずくしかなかった。

デトロイトのミドルクラス家庭に生まれ、優等生だったシャカは、両親の離婚を経て、 14歳 のときに家を飛び出し、街角でドラッグを売り始めた。17歳のときに3発の銃弾を体に受け て、一命を取り留めた。 19歳だった1991年、シャカは人を撃って殺人者になった。そして つかまって有罪判決を受けて19年間服役し、そのうちの7年を監禁独房で過ごした。その7 年の間に、文章を書くことを覚え、自分の罪と向き合い、出所したら、自分のようなデトロイ トの若者たちを助けようと心を決めた。そして実際に出所してからは、デトロイトのもっと も貧しい地域を代表するアクティビストとして市や州との交渉の窓口になったり、ミシガン 大学で教鞭を取ったりするようになっていた。シャカは、街灯の40%が点かない状態で放置 されている、そんなエリアに暮らす人たちが安全に帰宅するためにウェアラブルの技術を使 うことはできないか、スマートフォンを持たない貧困層の人口のために、市政からのお知ら せをデジタル・サイネージで解決できるのではないか、そういう話をしてくれた。けれどそ のあと、こう言った。
「デトロイトの再生において、スタートアップやイノベーションが重要な役割を果たすことは 間違いない。でも、デトロイトは人口の減少とともに衰退した。裏を返せば、人の力なしに街 を再生することはできない。だから僕は、もとからここにいるコミュニティの人々を再生へ の道に参画させたい。ダウンタウンやミッドタウンで起業している人たちが、自分たちのエ リアを越えて、昔からここに存在する貧しいコミュニティとつながっていけるかどうかが、 デトロイト再生のカギになるんだと思う」

(続く)

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