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一人の女性として思うこと #1

今年の新型コロナ流行のおかげなのだろうか、

ややストレスから解放された、 家族と一緒の時間ができて幸せ、真に大切なものに気づいた、自然は偉大だ。。。

こんなに心も身体も忙しい生活をしていたんだ、と気づいた方が周りに増えた気がする。


最近、どの情報が正しいのか、誰がどういう根拠に基づいて発信しているのか分からなくなってきて、ますます感じることは、

自分の身体を世話できるのは自分自身でありたい、ということ。
自分を一番よく知るのは、他にもない自分であるべき、ということ。
最終的に一番信用できる存在は、自分でありたい、ということ。

自分の身体をもっと信じて、ずっと自分らしく、健康でいたい。


でも、これが場合によっては結構難しい。

自分の個性が尊重され、自分を愛すること、自分を労わることを教わり、しっかり意思決定できる環境で暮らすことが出来ている、と断言できる方はどれくらいいるだろう。
必要以上に、自分の身体は、ものと他人に任せなければ健康でいられないと考える方は、どれくらいいるだろう。



過去を変えることはできないし、これまでの人間の歴史は、受け入れることしかできない。でも、「これから」を良くしたいと考える時、どうやって「今」にたどり着いたのかを知ることは大切だと思う。

自分と周囲の関係は、どうありたいか。
暮らす環境(社会)の中で、自分はどのポジションをとるか。
これも時々振り返ることは自分のメンテにもなる。


親になって、我が子にどのような暮らしを手に入れてほしいか考える時、就く仕事や暮らす場所という、考えてもどうにもならない未来のことより、自分らしく、自分の力と判断で道を切り開いて人生を創っていける土台を、私といる間に日々育てる義務がある、と我が子だけでなく小さな子供たちを目の前にして思うのだ。

長男を産んでから、何が何だか分からないけど、とにかく必死に産んでから、私はこんなに自分の身体のことを知らなかったのか、と思い知らされた。



現代は、主に多くの女性が頑張って手に入れた念願の「男女平等」という言葉の圧で、教育や労働などへのアクセスへの道は開いても、結果どちらも同じリズムで同じように機能することを強いられることになった。男と女の身体のつくりは違うのに、だ。

並行して、プライベートや家庭内で起こることは、社会では重要ではなくなり、自然に備わった女性の身体機能にそぐわない、人権尊重に対し矛盾することで溢れかえるようになり、いつまでたっても身体の喜びを、深い心の底から湧き出るような喜びを、どこか完全に感じられない時代が続いている。

セックスしても、妊娠しても、出産しても、育児してても、性のプロセスにおいて、どこか自分のカラダが持つ能力を十分発揮できていない気がする。何だかいつも、不完全な気がするのだ。

そして、性別や年齢、肩書、人がカテゴライズされて、それぞれへの固定概念が、これまた大きな邪魔者になっている。


何が平等なのか。平等とは何なのか。

教育? 報酬? 育児?



そんなことを言う前に、ベースであるはずの「身体」と「心」はちゃんとケアされているのだろうか。
産む身体を持つ女性の心身の健康は、守られているだろうか。

何のために人は、命を産み育んでいるのか。
幸せとは何なのか。


私たちは、1人の人間として個性が尊重され、身体に備わる自然な機能を十分に発揮したり、理解し、意思決定ができ、自分の身体の主人公になる権利がある。

皆さんは、女性が社会進出できるようになった今でもなお、続く抑圧の経緯を、考えたことはあるだろうか。男女ともに、皆に影響がある抑圧だ。

自由を得たように思えても、実際は根強く存在するその抑圧と、よくよく立ち止まって考えたら当たり前であるべきではない、固定概念・偏見の呪いから解放されないことが、様々な苦しみの原因だとしたら。

「xxだからxxであるべき」と当然のように信じられていることは、本当に当り前だろうか。「ありのまま」の自分を裏切らず、自分らしい暮らしができているだろうか。

個人的に一番邪魔な呪いのメッセージは、
「母親だから」シリーズである。

母親である以前に、私は女性であり、「私」という人間だ。
女性だから子供が産めたけど、母親になったからと言って、どうあるべきかという決まりは、他人に決めてほしくない、と思うからだ。


「子供なんだから、xxしなさい」
「女の子(あるいは男の子)なんだから、xxxしなさい、ありなさい」

偏見を埋め込むのは、周囲であり、大人。
周囲の行動を子供は受け入れ学んでいくわけだから、偏見が崩れたら、
せめて家庭内だけでも、教育は変わる。



書いていてもきりがないので、
今回は、命が生まれる土壌である、「女性の身体」に焦点を絞って書こうと思う。


「女性の身体」や「性」に対する現代の価値観は、どのような経緯で築かれてきたのか。教育、経済、政治、医療、宗教…、どの角度から見ても、女性が不利な仕組みになっていることが多いとしか思えない。それが当然だと考えられているところもある。

女性の身体について、心について、女性が先導して、男性科学者のように多額の補助金を受け研究を実現することは非常に少ないことは、言うまでもない。
幼い頃は性別に関係なく関心を持つ分野である、科学・技術・工学・数学は、未だに女性が進出しにくい分野なのだ。

科学が進歩し始めてから、人間はこれまで、女性のセクシュアリティーについて真剣に取り組んできていないと言われている。 「グレイ解剖学」にクリトリスの実際の、本当の姿が記載されたのは、つい最近のこと。

科学は、見えること、見えやすいことを追求しがちなのか。
もしかしたら、クリトリスが男性の身体のものだったら、とうの昔に発見されていたかもしれない、とさえ思う。

科学者(つまり男性)は、女性の身体は子を産む機能が備わっていればよしとし、それ以外はほとんど無視され続けてきたという意見もある。

それが、今多くの女性がぼんやりと感じる、セクシュアリティと性のプロセスを、完全に享受できていない、何かが欠けている、という印象が消えない理由なのではないか。

存在する女性の数だけ身体の声、身体が刻んでいく真実がある。これは言葉で表せないことが多い。

そして、それら真実は目に見える形で証明しずらいため、表の世界では忘れ去られ、自分の中ですら、なかったことになりやすい。

本来これは、自分を築いているもので、全て尊重されるべき、受け入れられるべき真実なのでは。



目に見えるものだけを信じるのは、目に見えないことの方が多い人生、もったいないことだらけな気がするのだ。

男も女も、頭で考えることが正しいと思うのではなく、もう少し頭から下にある身体全体を感じることをしなければ、もったいないのではないか。

女性がもっと自分の身体に自信を持てたり、「普通に産む」のではなく、「自分が産む」という意志で、出来る限りのちからを発揮できたら、そこから得るものは、とてつもなく大きくて、身体に確実に、ちょっとしたことでは揺るがない自分の誇りと真実が刻まれる。

これは、実際に多くの女性が感じている、自分の力で築いた、真実。
それなのに、その真実が存在しないかのように、産む現場はどんどん逆方向に進んでいる。

自然が与えてくれる、無限の見えない力。
それが多くの場所で、台無しにされてしまっている。


男性的社会、ヒエラルキー、家父長制、父権主義制度。。。今さら名前なんてどうでもいい。

女性は、表で輝きたいのではない。
そんなことどうでもよいのだ。
人生大事なのは、表の世界ではなく、自分自身であり、

女性は、自分らしく自分の力を発揮できるからこそ、自然に輝きを放つのでは。
自分らしくいられるからこそ、輝けない時もあり、「それでいい」と思えるのでは。


#コロナ禍の気付き #女性 #ありのままでよし #女性の身体

#月経 #セクシュアリティ #性のタブー #偏見  

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