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しゃべる気遣い・しゃべらない気遣い

自分のために綴るnote8回目のyumiigoです。
とにかく毎日書くことを目標に始めて一週間超え。
昨日は早速ズルしてしまった。つぶやきコメントを1回で良しとしたわけですが。まあ無理なく毎日何かしら書き留める事が出来ればokにしよう。
だって自分のためだもん。

というわけで、なぜ昨日は書けなかったかというと、久しぶりに前職の同僚と飲みに出かけたからという単純な理由です。
そこでまた色々と思う事があったので、今回はそのことを綴ろうと思います。

飲み会好きの一番嬉しい瞬間

写真は3人ですが、これはコロナ前の過去の飲み会写真で(紛らわしい)
昨日は、元同期の二人で飲みました。

私の前職は某大手携帯会社のショールームスタッフだった。(派遣時代)
その時、一緒に入社した方は2歳お姉さんで昨日の飲み相手。
当時、私よりすぐに会社の人達と打ち解けていた彼女はとても優しく良い人で、気後れしている私にも色々と声をかけてくれ、一緒に入社したのにめちゃくちゃ助けられていた記憶。

当時の携帯電話のショールームの世界は女性ばかりで、まあ綺麗なお姉さん揃いで制服も首にスカーフ巻いちゃってキャビンアテンダント風。
私はそんな場所に採用されてしまったわけで、なんか自分的にも浮いている感覚は常にありつつ、それでも会社内の異動や業務変更などにもなんとか順応していき、同期のその人が辞めるのも見送った。
結果、私自身は勤続11年で退職したというのが前職だ。
今でもその時代入れ替わりがありつつも一緒に働いた仲間達とは仲良くさせてもらっているのは大変ありがたい。

それはいいのだけど。
昨日の飲み会、私なんかしゃべったかな?というぐらいの弾丸トークの3時間コース。
それを聞きながら、ああそうだった昔から彼女はこんな感じだった、、
と思い出していたんだけど。
こちらが質問するような間もなく、延々としゃべり続ける正に弾丸トーク。
基本的には娘の話が多くそれに付随するPTA活動の話とか話すのが上手いので面白おかしくエピソードを語ってくれる。
まあ3年以上ぶりなので、いくらでもネタはあるしケータイの写真もたまに見せていただきながら、話は続くよどこまでも。。

時々、「へえ」「すごい!」「なるほど!」「え?なんで?」とか相手の単語をおうむ返ししたりして相槌をしていればいくらでも発展していく。
これって私の「傾聴力」の賜物なのか、いやそんなことはない。
会話の主導権は”聴き手”だというけれど、ここまでの弾丸トークを私がコントロールしているとは到底思えなかった。
イキイキと話す彼女を目の前に、私は傾聴の基本を考えさせられる時間だった。

とはいえ、帰りに「今日、めっちゃ楽しかった!また近いうちに会おうね!」って言ってもらえたから、まあそれでいいか!と思って帰ってきたけど。

犬の足跡

携帯電話、ショールーム、、なんだか綺麗なお姉さんとか優雅で華やかなイメージだけれど、携帯ショップへ行くとわかると思うが、まあショールームであっても似たようなもので説明が多く大変な仕事だ。
携帯電話の契約のことから機種の説明、故障の対応、データのバックアップ、操作説明、料金プラン、割引、支払い方法、、まあ説明しなきゃいけないことは山ほどあるわけで、ある意味話すのが仕事だった。
だから、前職時代の仲間達との飲み会はみんなよくしゃべるのだ。

しゃべる行為の認識ってすごく個人差が大きいものである気がした。
私が思ったのは、しゃべることを”仕事”にしていた人間にとって、しゃべる行為は、一種のサービスの提供であると意識・無意識問わずあるんだということ。
だから、久しぶりに会ってあれこれ沢山のことをしゃべってくれた同僚は、私にいろんなエピソードを面白おかしく”しゃべる”という行為でサービスを提供してくれていたのだ。沈黙が怖いとまではないけれど”しゃべること”は私への気遣いでもあるんだと思う。

それが今の私の職場は、営業事務が中心でしゃべることはあまり仕事の中心ではない。
隣の席のベテラン営業事務の女性は電話対応はパーフェクトなくらい丁寧で素敵な声だけど普段寡黙であまりしゃべらないし、仕事でわからないことを私が尋ねても平気で「え?わからない」「知らないけど」とはっきり言う。
私は嫌われているのかと今でも咄嗟に思ってしまうほど、リアクションが冷たかったり無愛想で戸惑ってしまうのだが、少しそれは私の認識のずれがあるかもしれないと思い始めた「しゃべる行為」の捉え方。

営業事務を20年以上やってきたベテラン先輩社員の女性にとって”しゃべる”ことは仕事では無いし、サービスでも無いのだ。ましてやしゃべる行為が気遣いというより、”しゃべらない配慮”をしているかもしれない。

私は前職の仕事の現場で先輩社員に、
お客様であろうが社員同士であろうが質問されたときに「わかりません」「〜だと思います」という回答はプロとしてダメだと教わったので、今でもその二つは極力使わないのだけど、今の会社の先輩は平気でそのフレーズを使うことにまず絶句した。
今は職場が変わったのだから環境は違うし、「わからない」とか「知らない」とかその先輩と同じように私が使ったとしても責められるわけでもない。ある意味、状況によって楽になれる場面もあるのかもしれない。
でも私は職場は関係なく、仕事の上で「わからない」とか、「〜だと思います」というような言い方をしないという姿勢は、自分の中でとても大事なことだと思うので信念として今でもやっぱり使いたくないと思っている。
だからと言ってその言葉を使う先輩を否定することもまた違うんだと思うのだけど。

少し話が逸れたが「しゃべる行為」に対して、サービスだとか気を遣ってしゃべるという認識を持つ人は多くいると思うし、自分自身も昔はそう思っていた。
だけど、しゃべらない気遣いというのも当然あって「傾聴」はどちらかといえばそちらに寄っているようにも思う。

人はみんな自分の思いを外に出したいのが自然なことだと思う。
この世界に生まれてきた瞬間から声を発するのだから。自分が生きていることを周りに主張して。
それを受け入れるためには「聴く」姿勢が大事だし、しゃべることを促す言葉を投げかける必要もあるだろう。
情報が溢れる今の世界では「聴いてくれる」ことはとても価値があるように思うのだ。

だからしゃべる気遣いもしゃべらない気遣いもどちらもわかる。
ただ、今の私は喋らない気遣いを学んでいるフェーズとも言えるかもしれないなあと思い始めた。

情報過多の今の時代に、私は人の話を聴けるようになりたいと思うように
前職を辞めてから考えるようになったんだと思う。
そんなことを思った飲み会だった。





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