フリーダと共産主義(フリーダ・カーロの日記#18)
1928年、フリーダはメキシコ共産党へ入党しましたが、1929年にディエゴが共産党を追放されたのを機にフリーダも離党しました。ディエゴはロシア革命家レオン・トロツキーのメキシコ亡命を受け入れながら、資本主義国アメリカの大富豪達をクライアントに持っていたため、共産党員から絶えず攻撃を受けていたのです。
フリーダはディエゴに従い離党したわけですが、後にジャーナリストのロサ・カストロに宛てた手紙で、「これは私の政治的過ちでした」 と書いています。1948年、ようやくフリーダは共産党に復党しました。1952年11月の日記には、この過ちについて、以下のように書き残しています。
その後も、日記の後半になるにつれて、共産党への忠誠心は益々強くなり、生きる活力となっていきます。「共産主義の革命運動に役に立ちたい」という願いが、彼女を絶望から救います。
しかし1953年3月のスターリンの死は、共産主義の革命運動の役に立ちたいと願っていたフリーダにとって大きな衝撃でした。日記でも「死ぬこと」に言及し、死を確実に意識しはじめていきます。
「もう、どうでもいい」と投げやりな一文を放ちながら、それでも政治的忠誠心は変わることなく、共産主義のシンボルである鎌と槌を描き、共産主義の中心的人物の名前を日記に挙げています。
1953年8月、フリーダの右脚は切断。
その後もフリーダは共産党員としての信条を貫きます。実際のスターリン体制下で何が起きていたのか、おそらく現実を知ることはなく、真実とはかけ離れた理想のスターリン、マルクス主義の思想が病気のフリーダを支えたのです。
1954年の春、フリーダは絵画制作を再開しました。この年に残した作品は3点、 『マルキシズムは病人たちに健康を与えてくれる』、『スターリンと一緒の自画像』、そしてスイカの静物画『ビバ・ラ・ビダ』でした。スイカの絵に刻まれたこのメッセージは、同年7月13日の死の8日前に書かれました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?