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公平平等のためならば

遠慮しないで傘入っていけよ
持ってない人がいたら入れてあげるのが
人の道って母ちゃんが言ってたから
#ジブリで学ぶ自治体財政

衆議院選挙を目前に控え、各党様々な公約を掲げ、いよいよ臨戦モードという感じですが、経済を再生させるための大胆な財政出動、コロナで傷んだ国民への給付、次世代を担う子供たちへの投資など、耳障りの良い政策が声高に叫ばれているものの、その財源についてはプライマリーバランスを一時凍結し、赤字国債で将来にツケを回すという程度のことしかどの政党も考えていない(あるいは言及すらしていない)という状況です。

バラマキの弊害やその財源を借金で賄うことの危険性についてはこれまで何度も書きました。
普通に考えれば、国民みんなで納めた税金を配分して各分野の行政施策を推進しているのだから、どこかで施策が充実し国民へのサービスや給付が増えればその分どこかが削られるわけだし、その痛みを避けて借金で問題を先送りしてもいずれ誰かがそのツケを払わなければいけない。
そんな簡単なことがわからない国民ばかりではないはずだし、政治家の皆さんだって霞が関の官僚の皆さんだってそんなにバカじゃないでしょう。
それなのにどうして、施策充実を唱える際にその財源の手当てを語ろうとしないのか。
それは私たち国民が「増税」というものにとてつもない負のアレルギーを持っているからでしょう。
「増税」は政治家にとって最大のタブー。
必要性は感じつつもそのことを唱えて政治生命を絶たれてはたまらないとほとんどの政治家が口をつぐみ、増税について政治家が国民に問いかけることなど恐ろしくてできやしない、というのが実情です。

では皆さんにお尋ねします。
私たち国民はなぜそんなに「増税」がイヤなのでしょうか。
今の生活がギリギリで、これ以上1円だって負担できないという経済的理由で増税が嫌だと言う人はそう多くはいないはず。
中には納められた税金が自分の思う通りに正しく使われていないという不信、不満から納税に非協力的という方もいるかもしれませんが、曲がりなりにも民主主義の仕組みの中で意思決定され実行されている政策、施策について承服できないから納税したくないという方は多数派ではないでしょう。
多分ほとんどの人が、今仕方なく税金を払っているけれど、払わなくていいものなら払いたくないし、負担は少ないほうがいいという虫のいい考えで納税そのものを忌避したいと考えているのではないでしょうか。
確かに税は双務契約に基づくものではないので、対価性がありません。
物を買ってお金を払うように、税金を払ったらサービスを受けることができるというものではなく、税を払うことによって得られる地位も、払わないことによって失う権利もないので、一方的に収奪されている印象なのが良くないのかもしれません。
しかし、納税は憲法が定める国民の義務です。
なぜそのことが義務として定められているのか、私たちは納税によって具体的には誰に対してどんな責任を果たしているのかを考えてみましょう。

税は誰に対しても等しく課せられるわけではありません。
租税負担を納税者の「担税力」に即して公平に配分し、納税者を平等に取り扱わなければならないという「租税公平主義」、皆さんご存知でしょうか。
「担税力」というのはあまり聞かない言葉ですが、税を負担する力、支払い能力のことを指し、個人や法人など租税を負担する者が不当な苦痛を感じることなく、社会的に是認できる範囲内で租税を支払える能力を意味します。
そしてこの租税負担の公平性は、水平的公平と垂直的公平に分類されます。
水平的公平は、同じ所得水準にあり,同じ租税能力のある者については,同じ税額が徴収されるのが公平であるという考えで、これは課税の納得性を高める原則ですが、垂直的公平は,能力の高い者ほど税の負担能力も高く,より納税額が大きいのが公平であるという考え方で,これは納税によって支える社会コストを納税者で均等に負担すれば、結果的に経済的弱者への負担が高まり、税負担の公平感が損なわれるということを避けるものであり、所得税の累進性の根拠ともなっています。
税を負担する能力が高い者により高い税率がかけられる累進課税がなぜ「公平」「平等」と呼ばれるのか、首をかしげたくなりますが、実はこの担税力による垂直的公平の実現こそが、私たち国民に納税の義務が課せられている真の理由だと私は思っています。

税はもともと、一定のエリアの村やまち、クニの整備や維持、防衛や消防、警察などの行政運営に係る経費を住民みんなで等しく出し合う、町内会費のようなものでした。
しかし、近代社会の形成により国民の間に貧富の差が生まれ、その格差是正のために社会保障の仕組みが行政サービスとして組み込まれるようになり、その財源として税を徴収するにあたり「富の再分配」という考え方が用いられるようになりました。
富める者の冨に多く課税することによって、貧しき者に配る財源を確保する「富の再分配」がなぜ近代になって課税理論として一般化し、それが租税公平主義として確立したのか。
それは基本的人権の尊重という概念と切り離せません。

人はそれぞれ能力に違いがあり、あるいは年齢や健康状態、社会的な身分、立場などによって一定の経済格差が生じることは必定ですが、そのそれぞれの基本的人権が尊重され、人間らしい生活を送ること、安心して生きることができる世の中であるために、力の大きい者が力の小さい者を見返りなく支え助ける「相互扶助」を第一と考え、個人の経済利益を追求する私権を制限してでも「相互扶助」の責任を果たさせるために国民に納税という義務を課している。
社会保障は給付によって行われると考えるのが一般的ですが、その裏で行われている財源確保としての課税徴収においても、租税公平主義に基づく富の再分配によって相互扶助、弱者救済の社会保障の仕組みが機能しているのです。

私たちは自分ひとりで生きているのではなく、同じ社会の一員として共同生活を行っており、納税は個々の担税力に応じた社会的責任を果たすことで経済弱者の税負担をカバーし社会保障の財源を確保する相互扶助義務の履行。
お互いに困ったときは自分の持っている能力の範囲で助け合う義務を負っており、その義務を履行するためにそれぞれの能力に応じて税を納めているのです。
このことを理解したうえでなお、もし今、護られるべき弱者がいるとしたならば、その護るべき者を支える財源確保のために、私たち国民は今のように納税を忌避し、社会保障財源確保のための増税を嫌がっていいのでしょうか。

それぞれの「担税力」の範囲での負担によって得られる財源がなければ困窮する社会的に弱い立場の方々を支えるためにひと肌脱ぐことをどうしてそんなに毛嫌いするのでしょう。
借金のツケを将来の世代に回すことが身勝手で自分本位な行為であると書きましたが、比較的担税力があるにもかかわらず、自分が受けられる給付には敏感に反応しつつもその財源となる納税を忌避し増税に反対することのほうがよほど身勝手で自分本位であろうと思います。
もっとも、国民に個人の私権を制限してまで相互扶助の義務を履行させる以上は、そこで行われる富の再分配が平等、公平で妥当なものになっていることが透明性を以て合理的に語られることが必要なことは言うまでもなく、そのような再分配を実現し、その内容を国民に対して説明する責任が政治家や官僚組織、私も含めた公務員たちに課せられているということも自覚しなければなりませんが。

★2021年6月『「対話」で変える公務員の仕事~自治体職員の「対話力」が未来を拓く』という本を書きました。
https://www.koshokuken.co.jp/publication/practical/20210330-567/
★2018年12月『自治体の“台所”事情“財政が厳しい”ってどういうこと?』という本を書きました。
https://shop.gyosei.jp/products/detail/9885
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