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そこにいていいんだよ

みんなと同じでなくて構わない
改革意欲に燃えていなくても
愚痴ばかりこぼしていても
話したくないなら話さなくてもいい
みんなそこにいていい人なんだから
#ジブリで学ぶ自治体財政

「対話」とは,本当にすべての人にとって役に立つ社会インフラなのか。
ちょっとキツめのタイトルでこの命題に挑戦してみました。

「「対話」で変える公務員の仕事」などという大それたタイトルの本を書いた人がいましたが(笑),「対話なんて役に立たない」という人から見て「対話」がどう見えているのかということについて,私たち対話信奉者はもっと意識しなければという視点で記事を書きましたが,今日も火に油を注ぎます。
私が懇意にしている方のブログにこのような記載がありました。
1)ワールドカフェは対話の促進にはならない
2)グラレコは議論の可視化ではない
3)ファシリテーションは仲良しの技術ではない

対話は楽しい,対話大好き,対話で世界を変えていこう!なんていう対話バンザイ主義者からすると,ちょっと激しすぎてわけわかんない感じですが,私はこのブログを読んで,本当にいいことを書いているなと思いました。
このブログは,対話が役に立たないという立場では決してなく,あくまでもパッケージ化された技術はわかりやすく再現性が高い反面、使い所が限定される難しさがある,という視点でその例としてこの3点を挙げられています。
その趣旨は原文をそのままお読みいただきたいと思いますが,ここには私たちが「対話」という言葉を使い,あるいは「対話の場」を創る際につい端折ってしまい,見逃しがちである重要な要素についての言及があります。
それは「人を大切にする」という視点です。

以前私が書いた記事にも同じような趣旨のものがあります。
市職員同士でのゆるーい対話の場「明日晴れるかな」を始めたころの体験を基にした「すべての人が適任者」という記事です。
もともとこのオフサイトミーティングが始まるきっかけとなった「禁酒令」について,市職員である我々の中でも賛否が分かれ,戸惑い,怒り,落胆など様々な感情が入り混じっている中で始まった対話の場なので,どのような立場で参加しても構わない,どのような意見を述べても否定しないで互いに自分の腹の底にある思いをぶちまけよう,という場の趣旨が根底にあります。
同じ市職員でも,禁酒令に対する立場,見解が異なる者同士での「対話」は,最初のうちは荒れに荒れましたが,いつの間にか互いの声に耳を傾け,相手の感情や主張を尊重できるようになるようになりました。
そこで私たちに身についたのが「すべての人が適任者」という考え方です。
みんなと同じ意見を持っていなくても構わない。
改革意欲に燃えていなくても、愚痴ばかりこぼしていても構わない。
その場にいる誰もが「ここにいていいんだよ」と互いに許容される場。
初めての参加でも、めったに参加していない久しぶりの参加でも構わない。
職種や職責、年齢や性別も問われず、誰もが周りを気にすることなく自由に自分の立ち位置を定めることができ、そのことをお互いに認め、尊重できる場。
私たちのゆるーい「対話」の場の居心地のよさは、いつの間にできあがったこのグランドルールのおかげなのです。

「対話の場」というと,それぞれの立場や見解に関する自由と安全が保障されたところで忌憚なく互いの思いを語ることができる場と考えがちですが,実は「忌憚なく思いを語ることができる」ことは場のルールが生んだ結果であって,本当に大切なのは「それぞれの立場や見解に関する自由と安全が保障される」という場のルールそのもの。
それは対話の場でなくても私たちが日常生活で保障されるべき基本的人権です。
ワールドカフェやグラフィックレコーディング,あるいはファシリテーションそのものが,対話を促進する技法であると同時に,対話の場で保障されるべき自由や安全を担保するものであるはずなのですが,そこが技法として定型化されるなかで「そこにいる人を大切にする」という視点がずれてしまっている,ということが,このブログで指摘されていることなのだと思います。

自由は安全を保障しません。
場合によっては,ある人の自由は他の人の自由を奪い,安全を損ないます。
前回の記事で書きましたが,異なる意見の対立を乗り越えるために必要なのが良質な議論のための「対話」であり,その基礎となる考え方や手法の体得のために「対話」を仮想体験するのがワークショップ。
ですから,その仮想体験においては,私たちが対話のみならず日常においても大切にしなければならない「そこにいる人を大切にする」という視点,すなわち基本的人権の尊重についてしっかりと思いを馳せ,自覚してそう振る舞えるようになり,その経験もまたリアルな議論の場に活かされなければならないのです。
「対話は楽しいだけで中身がない」と言う人たちは,確かに私たちの催す「対話(という名の放談)の場」なるもののこうした現状を見透かしているのかもしれません。

私たちはなぜ「対話」が大切だと思うのか。
私たちはなぜ「対話の場」を設けるのか。

件のブログの主はこう結んでいます。
「場は手段であり、前提であり、そこにいる人が大切にされることが目的。
そこに居る人・そこに居られなかった人に対して、「このくらいでいいか」という扱いをしないこと。」

目指すべきは,すべての人が「そこにいていい人」として大切にされる社会。
忌憚なく思いを語り合うことができる「対話」が社会を変えるのではなく,当たり前に「対話」ができるための前提となる,すべての存在をありのまま受け止めることができ,すべての人が「そこにいること」を尊重することが当たり前という意識への変容。
この意識変容こそが,私たちの住む社会をより居心地の良いものへと変えていく原動力であり,対話文化の普及,あるいはそのために行われる対話の場づくりは,すべての人がそこにいることを適任者として認められ大切に扱われる社会を目指す意識変革の取り組みという側面があるのです。
こう考えると,「対話は社会のインフラである」という比喩も,インフラと表現されているのは「対話」そのものだけでなく「対話」ができる環境,人々の意識まで含めた社会のありようととらえることができ,それが私たちの暮らしを支える基盤となるということがストンと腑に落ちてきます。

私たちが「対話の場」を催す際には,「対話」によって交わされる言葉そのものが大切な場合もあれば,「対話」の前提となる相互の尊重と受容について認識を新たにすることが大切な場合もあります。
催す場の目的に応じて,主催者としてその場に何を求め,何に配慮すべきか,参加者に何を促し,一緒にどのような場を創り,何に満足してもらうか,そのためにどのような技法を採用し,誰にどのように参加を呼びかけ,どのように運営すべきか,といったことについて「人を大切に」という視点から丁寧に考え,真摯に実行していかなければならない,ということですね。

★自治体財政に関する講演、出張財政出前講座、『「対話」で変える公務員の仕事』に関する講演、その他講演・対談・執筆等(テーマは応相談)、個別相談・各種プロジェクトへの助言・参画等(テーマ、方法は応相談)について随時ご相談に応じています。
https://note.com/yumifumi69/n/ndcb55df1912a
★2018年12月『自治体の“台所”事情“財政が厳しい”ってどういうこと?』という本を書きました。
https://shop.gyosei.jp/products/detail/9885
★2021年6月『「対話」で変える公務員の仕事~自治体職員の「対話力」が未来を拓く』という本を書きました。
https://www.koshokuken.co.jp/publication/practical/20210330-567/
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