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持続可能性を謳うなら

終末のときが来るのがわかっていて
なぜ踏みとどまることができないのだろう
世界を蝕み葬るのは人の営み
その流れに抗い世界を守ろうとする人は
星の数ほどいるというのに
#ジブリで学ぶ自治体財政

来る総選挙に向けて与野党ともに様々な経済対策を掲げて国民へのアピールが始まりましたが、この政策論争を「バラマキ合戦のようだ」と評し、財政収支黒字化の凍結、消費税率の引き下げまで提案され、政策推進に必要な財源の確保が棚上げになっている状況を憂慮した現職の財務事務次官が雑誌に論文を寄稿しました。

その主張は私がこれまで繰り返し述べてきたことと全く同趣旨なのですが、今回、現職の財務事務次官が個人的見解とはいえ、財政破綻の可能性に言及し、「不都合な真実」を直視し、先送りすることなく対処していかなければならないという言葉を発したことは、自民党新総裁誕生と総選挙という、国民が政治や政策のことに関心を持ち、真剣に考えるタイミングで改めてこの「不都合な真実」についても考えてほしい、という思いの表れであり、大変敬意を表したいと思います。

国は必要な支出の額に対して収入が足りないとき、収入と支出のギャップを埋めるために「赤字国債」を発行することができますが、この国の借金の状態を表すのが「ワニの口」がどんどん拡大しているという話を書きました。

「足りなければ借りればいい」という逃げ道があると「足りないから無駄な支出を抑えよう」という意思が働きづらくなることは個人が消費者金融などで生活費の不足を補填してしまう気持ちと同じです。
一度借りることに慣れてしまうと本来の収入の範囲に生活水準を落とす努力を怠り足りない分をさらに借りてしまうことになってしまいます。

政策推進のための財政出動の財源を赤字国債のみに依存し続ける政府は,いつプライマリーバランスの黒字化を目指すのか,目指すとすればいつまでにどのような手段(歳出削減,歳入増加)で実現するのか,を明らかにする必要がありますし,もし仮に「国債で国は破綻しない」という論に立つのであれば,「なぜ破綻しないのか」「国民生活への影響はないのか」という懸念,危惧を払しょくする説明責任を果たす必要があります。

衆院選に向け,新たな給付や社会保障の充実を唱える声や,経済再生のためにプライマリーバランス目標の一時凍結により大胆な財政出動を,という声が日増しに高まっていますが、これらの財政拡大路線の財源について、それがいずれ国民の負担になるとは選挙前には誰も言いませんし、私たち国民もあえてそれを尋ねたりしません。
「もらえるものはもらいたい」「払わなくて済むなら払いたくない」
なぜみんな下世話になるのでしょう。
それはきっと,国や自治体の財布の中に入っているお金が「他人のお金」だと思っているからなのだと思います。
けど,自分たちが納めた税金は国や地方自治体のものになるのではなく国や地方自治体が一時的に預かっているだけで,それを全体で管理し再配分して社会を動かしているわけですから、国や地方自治体に集まっているお金も「自分たちのお金」なのです。

ところが赤字国債は、自分が給付を受け、国からのサービスを受けた経費を借金で賄い、その支払いを後の世代の負担とする仕組みです。
この際に必ず考えなければいけないこと,それは「財政民主主義」です。
財政民主主義とは、国家が財政活動(支出や課税)を行う際は、国民の代表で構成される国会での議決が必要であるという考え方で、これに基づいて、国及び地方自治体は単年度予算主義を採用し、年度ごとに国民、市民から徴収する税金の額とその使途を国民、市民の代表に問いかけ、賛同を得ているのです。
債務負担行為や繰越など、年度を超えて支出することをあらかじめ決定することが例外とされているのは、将来の国民、市民の持つ予算編成権に対する越権、侵害行為となるからであり、将来にわたって負債を負う「借金」の使途が限定的なこともこの考えに基づいているのです。
私たちには、現在の自分たちへの行政サービスのために過去の資産を食いつぶす権利も、将来の市民が収める税金を先食いする権利もありません。
私たちは原則として、年度の収入で賄えないほどの臨時的なものを除いて、現在の自分たちが収める税金の範囲でしか行政サービスを受けられない、それが「財政民主主義」に基づく「会計年度独立の原則」なのです。

国や自治体の財政運営において,借金によって将来の返済を義務化し年度を超えて将来の予算編成の裁量を狭めることは,その決定の際に将来の市民が議論に参加し意見を反映させることができない以上,その必要性や妥当性についてはその決定を行う現在の市民が将来の市民に対して説明責任を負うわけですから,相当に慎重であるべきなのです。
長期的な視点に立ちつつ,現在の市民と将来の市民の利害を均衡させるには,国や地方自治体の財政構造やその根本理念を理解する必要があるとともに,市民一人ひとりが現在の自分と同等に将来の自分やその子や孫たちを同等に扱い,その権利を侵害しないで尊重できることが必要になります。
この次世代の権限尊重の考え方こそが,過度な負債で将来の市民の予算編成権限を侵さないという意味で,将来の市民が不在のままその市民が収める税金の使途を定めてしまう「代表なき課税」を避ける「財政民主主義」の根本になるのです。

新たな施策事業に必要な財源を仮に赤字国債で調達するのであれば,いずれ返さなければいけない将来の負債が積みあがる朝三暮四でしかありません。
返すのは自分ではない将来の誰かという無責任ではなく,現在の自分と同等に将来の自分やその子や孫たちを同等に扱い,その権利を侵害しないで尊重することが現在の我々が果たすべき責任であり,緊急的な財政出動を謳うならその必要性と合わせて,それが将来どのように国民の負担となり,今ここにいない将来の国民にどう説明責任を果たすのか,をしっかり論じることを,私たち国民自身が政治家に求め,自らも考えていかなければならないと思います。

これが、私がこれまで主張してきた赤字国債頼みの財政運営への意見です。
私が不思議なのは、自分のことだけがかわいい、後のこと、他人のことなどどうだっていいという利己的な国民ばかりではないはずなのに、なぜこの「不都合な真実」からみんな目を背けるのだろうかということです。
子供たちが健やかに育つよう子育てや教育に惜しみなく情熱を注ぐ親たちが、なぜ子供たちの世代に自分の借金を追わせて平気なのか。
美しい地球を次世代に遺そうと環境にやさしい行動をとることはできて、なぜ自分たちの遺した借金で首が回らなくなるかもしれない次世代の負担に対して無頓着でいられるのか。
基本的人権の尊重を国是とする民主主義国家に生きていて、なぜ将来の国民が自らの負担で自らの国家運営を賄う権利を侵害することができるのか。
SDGsがもてはやされ、持続可能性を考えないことは時代遅れだと言わんばかりの世の中で、国家財政の持続可能性については全く論じないでいられるのはなぜなのか。
社会的課題に関心があり、何か世の中のために貢献したいという利他の精神で考えて勉強したり実際に社会貢献したりしている人たちのことを私はとても尊敬しています。
しかし、そういう方がでさえ、上記のような考えに至ることができないのはなぜなのでしょうか。
その原因が無知ならば事実を知ってほしいし、そこまで考えが至らなかったのであれば、これを機にぜひ、そこまで考えてほしいと思います。

★2021年6月『「対話」で変える公務員の仕事~自治体職員の「対話力」が未来を拓く』という本を書きました。
https://www.koshokuken.co.jp/publication/practical/20210330-567/
★2018年12月『自治体の“台所”事情“財政が厳しい”ってどういうこと?』という本を書きました。
https://shop.gyosei.jp/products/detail/9885
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