寺山修司における【父の不在・母の呪縛】
年譜的な事実をいえば、警察官であった父・八郎は昭和二十年、寺山修司が九歳のときに戦病死している。母・ハツは昭和五十八年に寺山修司が四十七歳で死去したときも存命であり、告別式の喪主であった。(しかし「わたしは知らないよ。修ちゃんは死んでなんかいないよ!」と言って、出席していないという)。中学生のときに大叔父に預けられて以降、母とは離れて暮らす期間が長かった。
昭和二十九年、「短歌研究」主催の第二回五十首応募作品でデビューしたときの連作「チエホフ祭」の中の一首。「チエホフ祭」は編集長だった中井英夫がつけたタイトルで、もともとの応募原稿には「父還せ」と記されていた。「父の墓標はわれより低し」は哀しみでもあり、怒りでもあるだろう。父を超えたという勝利の響きもあるかもしれないが、それは現実には父との葛藤を経験できなかったことへの怒りを含んでいるように思われる。
虚構というが、それはif「もしも」の設定でもある。もしも父がセールスマンだったなら、もしも一緒に背広を買うことがあったなら、主体は含羞のまなざしを鷗に向けたであろう。そんな平穏な日常もあったかもしれない。
若い時期のこんな洒落た歌にも、「不在の父」が隠れている。父がいないから、他人である番人を父と呼びたいのだろう。
現実の寺山修司は父になることがなかった。短歌のなかでも主体が「父である」作品はみられない。「生きている蠅ごと燃えてゆく蠅取紙」「乾葡萄喉より舌へかみもどし」の不潔さ・不吉さは「子孫を残すこと」への不安を表現しているようだ。父を奪われた寺山修司が父の役割を演じることへの不安、と言ってもいいかもしれない。
母かもしれない雀を撃ち落とそうとする、「母殺し」を思わせる歌である。
「血」という章の「第三楽章」は、すべて「母」という語が入った十三首の歌からなる。そこから、母のせいで「わが顔」=「自立した自己」を失ったという歌と、母が「とぶものみな閉じこめん」=「自由をうばうだろう」という歌とを引いた。わかりやすく母の呪縛を図式化した作品群だ。
「血」の「第四楽章」より。塚本邦雄が、
と指摘しているが、寺山修司の短歌では母への愛憎、母恋いの思いが、ほぼ恋愛の様相を帯びることがある点は見逃すことができない。
第三歌集『田園に死す』になると、母への愛憎は青森の風土への愛憎と相まって独特の様相をとる。現実には存命の母を「亡き」者とし、その櫛で梳く山鳩の羽毛は抜けやむことがない。ここでは母は「亡き」ものでありながら櫛の中に怨念を宿して生きているのである。かつて子守唄を唄った「義歯」が母の死後も炉辺にのこっているように。母を死なせることで、逆説的にその呪縛を永遠のものにした作品である。
文芸評論家の三浦雅士は、
と述べている。
父の不在と母の呪縛。寺山修司はそれを見つめ、煮詰め、裏返し、様々な短歌作品で物語化したのである。
※初出「短歌人」2023年5月号 特集「寺山修司と出会う」テーマ「父母」。
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