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個人と時間について考えるー家族療法の話の前に

昨年旧知の仲であるコーチングバンクの原口佳典氏から「以前村上ちゃんの自宅でやった家族療法講座がメチャメチャ分かりやすかった」と連絡をもらい、この話を元に家族療法についてnoteなどにまとめたら?という宿題をもらった。

考えてみたら発達相談はまさに家族療法のインテーク面談の要素を持っている。もちろん家族療法の技法をそのまま使っている訳ではないが、家族療法や交流分析で学んだことは大いに活用している。

社会の変化に伴って家族の形も変わりつつある今、改めて個人や家族について考えるきっかけになれば、と思う。

私はどこまで私なの?

日常生活では自分というのは肉体を伴う行為だと考えるし、法律などでも肉体での言動がベースになっている。生物学的な意味でもそれが妥当と言えるだろう。

しかし、人は社会的な生物で必ず他人の影響を受けている。この辺りの話題はブルデューの『ディスタンクシオン』でも述べられているが、社会学的な意味では私は私(肉体)と私を取り巻く環境(他者との関わりなど)でできている。

いくら「私は私よ!」と主張してもその私が生まれるには親が関わるし、生まれた後も多くのインフラや人の助けが必要だ。実際私もN子さんという母に育てられ、かつ東京で生まれ育たなければ1970年代に早期療育を受けるのはかなり難しかったはずだ

一方で一人の人格としての個人は絶対なものだ。それは夫と24年間暮らしてみて、生まれ持っているもの(特性と言うべきか)の強さをひしひしと感じることがある。どんなに周囲の人の働きかけがあろうともその人の根幹を成している部分はそう簡単に変わるわけではない。

玉ねぎの皮と身の境界の如くどこからどこまでかは分からないにしても、どちらも自分を構成する大事な要素だと思う。だから最近は人は絶対的な自分と環境によって変化する自分の中を揺らぎながら生きているのだろうと考えている

ただし、交渉できるかは試すにしても自分で変えられる物はあくまでも自分が手を動かせる範囲で相手の核になる部分は本人以外変えられないと心得た方がいい

たとえ家族であっても自分以外の人は自分とは異なる意思を持って生きている。一緒に暮らす以上協力し合うことは必須だが、この前提が崩れてしまう事態になった時家族の中に歪みが生じ、少しずつ澱が溜まるように不満へと発展していく。

それこそ家族の中のトラブルとして人生の節目などふとした時に姿を現すものなのだろう。この辺りの話題は家族療法の基本的な考え方を説明する際に詳しく述べたいと思う。

家族に関わり続ける理由

生まれ育った家は父と母が育った環境がかなり異なっていて、正直「なんでこの人達結婚したんだろう?」と不思議に思うほどだった。成人後様々な事情が分かると「ある面は似た者同士だったのね」と納得したが、子どもの頃はそんな両親の価値観に挟まれてハラハラすることもあった。

発達相談業務を20年以上しているのもそんな経験が影響しているのかもしれない。総じて考えれば恵まれた環境で育ったとは思うが、仕事を通して様々な家族と付き合うと否が応でも自分の家族の姿が浮かび上がる。

家族は社会を構成する最小単位だと私は考えているが、家族こそ人間が社会を知る最初のステップでもある。それがよりよい環境であることを願うからこそ今の仕事を続けているのだろう。

個人としての生を全うするためにも、家族という形態ができた理由や家族の本質をずっと追求しているのかもしれない。

蓄積され・受け継がれる物

個人や家族については時と共に積み重ねられた物事について考えることも増えてきた。

ギリシア神話でも時間の神様はクロノスとカイロスと2人いる。クロノスは計測できる客観的な時間、カイロスはそれとは異なる尺度である主観的な時間を司る。

現代社会は記号化できる情報ばかりに目が行きがちだが、それだけでは語れない要素があるのが生物の奥深さだし、この世界の本来の姿だろう。

それと言うのも一昨年父が亡くなり、父の遺品を整理したらかな書道用の色紙や見本集などが出てきて全く意識していなかったが自分がペン習字を始めたルーツがここにあったのか!と時を超えた答え合わせのような経験があったからだ。

着物に興味を持ったきっかけは母の和服だったから結局私は趣味まで親譲りだったのかい!と親の呪縛から逃れきれない業のようなものを感じてしまった。そう考えると家族の影響というのは空恐ろしい

そもそも私が心理学科に進学したり言語聴覚士になったのも親の影響なのだが、その動機も家族のいい影響ばかりだけでなく、家族の病理(今どきの表現なら闇)を知りたいという一種の歪んだ探究心もあった(こちらは精神保健センターで勤務していた精神科医のご著書。支援職なら一読されるのをお勧めします)。

私のようにひねくれていなくても職業の選択に親の影響は多かれ少なかれ及ぼしている人は多い。例えばテレビドラマである俳優さんを見て「親御さんに似てきたな」と話題になることはよくある。こうやって連綿と受け継がれる事柄があるのも家族の特徴の1つなのかもしれない。

記号だけでは消えてしまうこと

今の日本社会では私の趣味であるペン習字や着物は贅沢品・嗜好品だ。どちらも時代の変化で消え行きつつあるものだが、これらの趣味で得た知識が親が何を言わんとしているか、欲しているかを探る手がかりになっていて意外と役立っている。

この10年ほど両親たちと過ごす時間が増えて見えてくるのは親世代の記号化されていないスキルの豊かさだ。いわゆる職人技もこの手のスキルだとは思うが、親世代の凄さは高い空間認識能力に裏打ちされた状況適応能力だ(まさにこの現場猫の職人のような感じ)。

少し前も母と歩いていたら彼女が突如「あれ、おいしいのよ!」と道端の草を指したのがきっかけで四季の草花の話題になり、やはり戦中戦後の混乱期を生き抜いてきた人は逞しい、と妙に感心することがあった(私が草花に興味を持ったのは着物の柄がきっかけ)。

逆に見れば現代の資本主義社会では換金されない(しづらい)知識やスキルはある時点で生活の中から少しずつ消えてしまう。きっと知らぬ間に消えてしまった生活の知恵やスキルはごまんとあるだろう。

それに自分の資源(能力や時間など)を換金できること=優れた能力とみなされてしまうことが果たして適切なのかも正直疑問に感じている。そもそもお金で価値を計るのは価値の一元化・単純化で、本来比べられないものを無理やり比較している面がある。見方を変えれば世の中の森羅万象を価格という価値で序列化しているようなものだ。

同様に記号化(言語化・数値化)された情報も諸刃の剣の面がある。便利だからこそこれだけ世界中に普及したのだが、記号や数字は情報のすべてを保存するのは不可能だ。

記号化された世界の中における個人と家族はどうなっていくのか?そんなことをテーマに家族療法について話を進めたいと思う。










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