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笑いはクスリ~お母さん本当にガンだったの?~

人の命はいつか終わりが来る
でも、自分の大切な人にはできる限り
1日でも長く生きていてほしい

これは、誰もが願うことではないだろうか・・・
私たち家族もそう願った
17年前の出来事。

母がなぜガンが治ったのか。
それから17年間何事もなく
生きていられるのかについて
話したいと思う。


「お母さんガンなんだって」

2007年4月、
熊本に住んでいる母から電話が入った。
当時、私は10歳と8歳の子どもと夫と
奈良県に住んでいた。

遠く離れて暮らしているので
頻繁に電話で話していた。
ついこの前話した時は
いつもと同じ会話だったハズ・・・

「は?ガンって何ガン?」
「なんかの間違いじゃないの?」

そう言う私に母は
「うん。そうであってほしいけどさ。
お母さん、すい臓がんなんだって」

今日、病院で
告知されたことを伝えるために
電話をかけてきた。

いつもと違う内容の電話。

私は一瞬気が遠くなってしまったが
私が動揺してはいけない!と思い
冷静になって、もう一度聞いた。

「なんでガンってわかったの?」

聞くと、
数日前、市の健康診断に行ったそうだ。
母は、昔から病院嫌いで
少々調子が悪くても、すぐに病院に行かず
自己治癒力に任せがちな人だった。

ずっと父の扶養として
パートタイムで生きてきたので
(父の扶養で家族の
健康診断はあったかもしれないが)
「健康診断しなさいよ~」なんて
会社から言ってくれるわけでもなく
市の健康診断も
毎年行っていたわけではなさそうだった。

それが
その年に限って
父から強く勧められたのと
健診カー(バスで近くまで来てくれるもの)で
近くでやってくれるし
「去年も行ってないから行っとくか」
くらいの気持ちで受けた
健康診断だった。

健康診断から数日後ー

血液検査で、炎症値が高く出たため
「要検査」のお知らせが届いた。

当時のパート先で
病院に詳しい同僚に
そのいきさつを話し
どこの病院に行くべきかを相談した。

A病院?B病院?
最初はA病院に行こうと思ったのだが
同僚の一人が
B病院を勧めてくれたので
B病院に行ってみることにした。

一通りの検査を終え
わかった診断結果が
「すい臓がん」だった。


すい臓がんと言えば

そう報告を受けた私は
「とにかく、私が動揺してはいけない!」
その一心だった。

変なところで生粋の長女魂が現れるのは
私の良いところなのか、そうでないのか。

まずは、
母と一緒に病院で話を聞いてきた父からも、
先生から言われたことをしっかりと
聞き出さなければいけない!


自分の感情はそれからだ。

なぜなら、
2人の娘たちは大のばあちゃん子で
10歳と8歳ならガンがどんな病気なのか
くらいは知っているはず。
彼女たちに悟られてしまったら
ややこしい展開になってしまう。

今、このよくわからない状況下で
何も説明できないまま
「大好きなばあちゃんがガンなんだ」と
知ってしまったら・・・
もう、想像しただけでややこしい。

きっと彼女たちにとっては
「ガン=死」に違いない。

まずは、なるべくいつも通り、
平然とした状態で
すい臓がんについての調査と
母の状態の聞き取り調査を
しなければいけない!


まずはじめに
私はインターネットで
「すい臓がん」について検索をした。

色々知りたかった。

治った人の話を聞きたかった。
どんな先生に診てもらったら治ったのか、
どこの病院に行ったら治ったのか、
生存率はどのくらいなのか
知れることは何でも知りたかった。


「すい臓がん・・・」

当時のネット情報によると
●すい臓がんは
 なかなか発見されないガンである

●すい臓がんに「早期発見はない」

●すい臓がんは見つかった時には
 ほぼ手遅れの状態なことがほとんどである

●すい臓は非常に難しい位置にあるため
 手術も難しい場合が多い

●すい臓がんで助かることはほとんどない


「なんじゃこりゃ!!
ネガティブ情報ばっかりやん!」

さすがの私もだんだん動揺してきた。

もう、ネットで調べるのは金輪際やめよう・・・
そう思いながらも、最後に

「5年生存率を調べてみよう」

ガンは手術後5年大丈夫なら、
治ったも同然。と
どこからの情報だったかは忘れたが
そんな記憶があった。
5年生存率が0%だったらと思うと
とても怖かったが、調べてみた。



『すい臓がんの5年生存率は10%』


「10%?????」



「ヤッター!!10%も生きれるんだ。
10人のうち1人は助かるのね!
100人のうち10人も助かる!
お母さんが
その10%の人になればいいんだよ!!
そうだ、そうだ!!
お母さんは絶対に死なない!」

何の根拠があってそう思ったのかは謎だが
私は心から湧き上がるその気持ちを
今でも忘れない。

そして
その一縷の望みを胸に
そっとネットを閉じた。


当の本人は

一緒に病院で診断結果を聞いた父も
明らかに動揺している。
遠く離れていて
一緒に病院に行ってあげられないのが
申し訳ない。

母からの情報によれば、
先生から「すい臓がんです」と告知されたとき
隣の父を見ると、
顔が真っ青になっていたそうだ。

更に先生が「大丈夫ですか?」と母に言うと
「私は大丈夫なんですが、夫が・・・」

そう、夫である父は
今にも倒れそうな状態だったらしい。
笑い事ではないが、想像すると
なんだかちょっと笑ってしまう。

当時は、まだスマホなどなく
家庭に大きなデスクトップのパソコンが
ようやく普及し始めたころだった。

今のようにLINEなどがあれば、
ダイレクトに様子を
聞くことができたかもしれないが
先生から聞いた診断の様子は
全て後から電話で聞かなければいけない。

ある日、
母は電話口で元気いっぱいこう言った。

「お母さんは、早期発見だからさ、
絶対に良くなるよ。
それに孫のために
今死ぬわけにはいかないからさ。
だから、お母さんは大丈夫だよ~」

だって。

私は、元気よく言う母に向かって心の中で
「いやいや、あんた、
すい臓がんに早期発見はないんですよ」

そう思ったが

「そうなんだ!
早く見つかって良かったね(*´ω`)
それなら絶対に治るね!」

私はそう言った。
母の健気なセリフが少し辛かった。

本人がそう思っているならそれでいい。
いや、それが一番いい!

現代のように何でも簡単に調べられる
世の中じゃなくて
良かったのかもしれない。

それから、何度も検査を繰り返し
ガンの状態も明らかになってきた。

母のすい臓がんは
ちょうど太い血管のすぐ傍まで
ガンが迫っているので、
このままではほぼ手術はできない。

では、どうすれば良いのか?
ガンを小さくするしかないというのだ。

担当の先生からは
「新しいすい臓がんの薬(抗がん剤)
が出ました。
効果があれば
今あるガンが小さくなるかもしれません。
それを使ってみようと思いますが
どうでしょうか?
もしその薬が少しでも効いて、
ガンが小さくなったら
手術ができると思います」

母と父は二つ返事で、
その提案を受け入れた。
当然、可能性があることは何だってやる。

そんなある日、
母が出かけている時に、
父から力なく電話がかかってきた。

内容はこうだ。
「この前、お母さんがいない時、先生に
『もし、手術ができなかったら
どれくらい生きられますか?』
と聞いたら『今年いっぱいですね』
と言われた」というではないか!

へこむニュースが次から次へとやってくる。

さすがの私もこれは、
一番のショックだった。


母にはもちろんのこと、
名古屋に住んでいる弟夫婦にも言えない。
彼らは、母のガンがわかった時、
2人で大泣きしたというではないか。
そんな彼らに伝えたらどうなることか!!

お母さんの命が
今年いっぱいかもしれないなんて、
多くの人の心に潜在意識として
植えつけてはいけないのだ。
父と私で、絶対にそんなことにはならない!と
強く思い続けるしかない!

こんなマイナスな情報は
ごく少数だけが
知っていればいいことなのだ。
「お父さん、これはお父さんと私だけしか
知らないことにしよう。
お父さんも一人で聞いて辛かったね」と
伝えた。



治療の開始

抗がん剤の治療が始まった。

抗がん剤を始める前、
神戸に住む父の弟(私の叔父)から、
母に「抗がん剤で髪の毛が抜けてしまったら
俺が良いカツラを買ってあげるから頑張れ」
と言われたそうだ。
「だから、髪の毛が無くなっても平気」
と母は言っていた。

母の場合、
抗がん剤治療のため、
はじめに半月ほど入院し、
点滴で行う方法だ。
退院してからは通院で点滴をした。

やはり、副作用でご飯の味が変わったり、
気分が悪くて
食欲が無くなったりするらしい。
そして手足の爪が変色したこと。
さらに倦怠感でとても辛いと言っていた。

私にできることはできる限り
毎日電話で話してあげることだった。

約1ヶ月の抗がん剤治療が終わり、
結果はどうだったのか。


なんと!
見事に母のガンは小さくなっていた。
これで手術ができる!!!
私はますます、大丈夫だと確信した。
お母さんは10%の1人になる。
揺るぎない心の声がした。

しかも、
母の髪の毛は
フサフサのままではないか!
聞けば、母が使用した抗がん剤は
髪の毛が抜けにくいものらしい。

抗がん剤=髪の毛が抜ける

とは限らないことも知った。
そして、叔父の出番は無くなってしまったが
それはそれで良いことだ。

さて、
手術の日。
7月の終わり頃の手術だっため
私は子供たちの学校がまだあったので
夏休みを利用して帰省することにしていた。
母が退院しても
きっと家のことはできないだろうから
ちょうどいいではないか。

手術には父はもちろん、母や父の兄弟、
名古屋の弟が駆けつけた。

私はなるべくいつも通りに
過ごしたかったので
いつも通りパートに出かけた。
子たどもちには、ばあちゃんが
ちょっとした病気だと言うことは
すでに話しており
そして、今日が手術日だということだけは
伝えていた。



手術は10時から開始。

どうやって手術室まで行ったのだろうか。
テレビドラマのように、
ガラガラと動くベットに乗せられた
母の横で、
父や弟が「お母さん頑張って!」
などと声をかけ、
手術室の手前で「ご家族はここまでです!」
なんて言われているのだろうか。

状況が見えないだけに、想像が膨らむ。

手術は夕方くらいには
終わるだろうと言われていた。
私が一番心配だったのは、
開始後1〜2時間で「終わりました」と
言われることだった。

開腹してみたらもう手の施しようがないので
そのまま閉じました。
なんて言われてしまうのが一番恐ろしかった。

1時間毎にロッカーへ行き、
携帯をチェックする。
11時、連絡なし!
12時、13時連絡なし!
よし、ここまできたら
悪い部分を取ってくれているに違いない。

先生よ、どうか母のガン細胞を
根こそぎ取ってください!

落ち着きを見せながらも
心はずっとソワソワしていた。

16時頃、弟から連絡があり
「さっき終わったよ。
手術は成功したって!」


良かった!
本当に良かった。

弟に
もう大丈夫なのか
ちゃんと悪いものは取れたのか
これで生き続けられるのか
他にもいろいろ
たくさん聞きたいが
弟にもわかるまい。

ひとまず、
悪いところは取れた
ということだけはわかったので、安心だ。

これで、来年以降の母の未来も約束された。

私は心の底から安堵した。


病気がわかってからの母の行動

母はガンがわかってから
きっと相当落ち込んだはず。

しかし、落ち込んだ姿を見せることは
ほとんどなかった。

その頃、弟に長男が生まれて
弟が住む名古屋で
「初節句のお祝い」を計画していた。

そこには、お嫁さんのご家族も来る。

母は、
お嫁さんのご家族に悟られてはいけないと
一生懸命だった。

お祝いの会はとても和やかに進んだ。

ちょうど、食事会のお店の店員さんに
面白い方がいて
みんなで大笑いする場面が何回も起こった。

その度に大爆笑する母。
本当にこの人は大病を抱えているのかと
思うくらい
明るく過ごしていた。

当然、
お嫁さんのご家族にもわかることはなく
無事、お祝いの会は終了した。


実は
その会に行くにあたり
主治医の先生に
「今度名古屋でお祝い事があるので
行く予定をしているのですが、
こんな状態で行ってもいいですかね?」と
聞くと先生は「良いですよ♬」と
すんなり答えたそうだ。

母はその先生の返事に
「もう、先が長くないからいいよって
言ったのかな?
それとも、そんなに悪くないから、
行っておいで。って言ったのかな?」
と不安がっていた。

確かに、どっちとも取れる・・・

いつもはプラス思考に捉えている母だが
そりゃ時にはこんな気持ちにもなるだろう。
きっと心配だっただろうが
それでも母は笑っていた。
「私は絶対大丈夫」と自分を信じて。


母のガンがわかる少し前
まだ未熟だった私は
ご近所問題で心を悩ませていた。

そして、その頃出会った
自己啓発の本にハマっていた。

マーフィーの法則
浅見帆帆子さん
ザ・シークレット
他にも色々・・・

その時私の中で熱かったのが
マーフィーの法則だった。

そんなころ、母のガンがわかったのだ。
病気を治す考え方の章を読んだとき
「これだ!」と思った。
母に使える。
これを読ませて母に実験させよう。

ただ、すでに母はガンがわかったときから
常に前向きだった。

「死ぬ気がしない」
「早期発見だから大丈夫」
「治るに決まってる」
「笑って過ごす」
「孫と楽しく遊ぶ」

この心の底から湧き出る
信じる気持ちが
すでにたくさんのものを
引き寄せていたのだ。

まず、
毎年行かない健康診断に行ったこと。
そして選んだ病院。
母はA病院かB病院かを迷っていた。
同僚に話さなければ
きっと母はA病院に行っていただろう。

A病院が悪い訳ではない。
選んだB病院で、
ものすごい偶然が引き起こされたのだ。


その偶然とはこうだ。
ある日、父が1人で
友人たちで行っている集まりの会に行くと
父母の共通の知り合いに
「あれ?奥さんは?」と聞かれた。
「いや、すい臓がんが見つかってね。
今から治療を始めないといかんのよ」
そう言うと、その知り合いの人は
どこの病院に行っているのかと聞いてきた。

B病院だと伝えると
「そういえば
俺の知り合いの医者の後輩で
とても腕の良い
消化器専門の外科医がいるんだけど
4月からB病院に転勤になったって
言ってたなぁ。一度聞いてみるよ」

程なくして、その知り合いから
「やっぱり間違いないよ。その先生いるよ」
と教えてくれた。
名前を聞くと、なんと
母の外科担当の主治医ではないか!!

これには驚いた!
何と言う偶然。
だから何、
と言うことではないのかもしれないが
先生と共通点が見つかったことで、
こちらもますます信頼感が出て
安心して委ねる気持ちが増す。

抗がん剤の治療の時は
消化器内科の若手の先生が主治医で
精神的にとても助けてくれたと言う。

どちらの先生も
患者に安心感を与えてくださる
素晴らしい先生だった。

母はそんな出来事を自ら引き寄せたのだ。

そして、新薬との出会い。
新薬との相性。

治療の期間、母は
マーフィーの法則をしっかり読んで
実践していた。

すっかり治った自分が
大好きな孫たちと楽しく過ごしている姿を
常に想像し、
目の前にある治療と向き合っていた。
私は治るんだ。と心の底から信じて。


そして
落ち込みそうな時は、
吉本新喜劇や漫才を観て
ゲラゲラ笑っていた。
母はとにかく笑って過ごしていた。

私ならあそこまでできるだろうか。



思い込みの力

母の病気と
私自身のご近所付き合いの悩みを
きっかけに、
潜在意識と引き寄せについて
ますますたくさん知りたくなった。

母を見ていると、
どうしても見えない力が
働いているようにしか思えない。

私は見えない力を信じている。

母本人の思い込みの力はもちろん、
周りにいる家族もその力を
発揮しなければいけない。


治療の前に父から聞いた、
「手術ができなかったら
今年いっぱいの命」と言うことを、
みんなに言わなくて良かった。
多くの人が「そうなったらどうしよう」と
思い始めたら、
そうなってしまう確率が高くなる。
全員が心の底から、
絶対大丈夫と思えればいいが、
それはわからない。
不安に思う人も出てくるだろう。

「不安」は生み出してはいけない。
絶対に大丈夫!と
安心して過ごすことで大丈夫になっていく。

家族は「お母さんは絶対に治る」と思い、
本人も同じように「私は大丈夫」
と思うこと。


そうすると見えない力が
大丈夫な方へ導いてくれる。


術後、母は2年間、
自宅でゆっくり過ごしたあと、
またパートに復帰した。
家にいると体が鈍ると言っており、
結構体を動かす仕事だったが、
みんなと同じように働いていた。

定期検診もしっかり行き、
5年経ったころ主治医の先生に
「今度もし、
どこかにガンが見つかったとしても
それは転移ではありませんよ」
と言われたそうだ。
それだけ、
すっかり完治したと言うことなのだ。

先生に
「先生のおかげでこんなに元気なりました。
ありがとうございました」と言うと
先生は
「私のおかげではありませんよ。
あなたの日頃の行いや
考え方が治したのですよ」と
言ってくれたそうだ。

何という素晴らしい先生なのか。

母がどんな病院を、
どんな医師を、
どんな状況を引き寄せるかは
母が普段どんな思考で生きているかによって
変わってくると思っている。

これは誰のどんな状況にでも
言えることではないだろうか。


笑いのクスリ

笑いはどんなクスリよりも効果が高い。
これは医学的にも立証されている。

驚くことに、健康な人の体にも
1日3000~5000個もの
がん細胞が生まれています。
それらがん細胞や体内に侵入する
ウイルスなど、
体に悪影響をおよぼす物質を
しっかりと退治しているのが、
リンパ球の一種である
「ナチュラルキラー(NK)細胞」です。
そして、このNK細胞を活性化させるのが、
「笑い」の持つ大きな力なのです。

人が笑うと、
免疫のコントロール機能を
つかさどっている
「間脳(かんのう)」に興奮が伝わり、
情報伝達物質の善玉ペプチドが
大量に分泌します。
それによってNK細胞を活性化され、
がん細胞やウイルスなど
“病気の原因”を次々と攻撃。
それが、免疫力アップのメカニズムです。
逆に、悲しみやストレスなどの
マイナス情報を脳が受け取ると、
NK細胞の働きがにぶくなり
免疫力がパワーダウン。
いかに笑うことが大切なのか、
改めて痛感させられますね。

また、
笑うことで不安感やストレスを軽減する
「ドーパミン」、
痛みを和らげたり神経を落ち着かせる
「エンドルフィン」、
幸福ホルモンと呼ばれる「セロトニン」、
愛情ホルモン「オキシトシン」などの
脳内物質が分泌され、
心身がリラックスする効果も。
その結果、
全身が健やかな状態に近づいていきます

かいごGarden

この記事にあるように
「笑い」は副作用のない
「クスリ」であることがわかる。
笑いはどんな悩みも
どんな病気も解決してくれると
信じている。



そして、少し元気になってからは
私たちが当時、熱狂的に応援していた
嵐も母の力になってくれた。
母は嵐に大ハマりして、
ファンクラブに入り、
毎年コンサートのチケットをゲットして
私たちと一緒に楽しんでいた。
嵐の出るテレビは必ず観る。
観れない時は父が録画をして観ていた。
嵐も母に大きな力を与えてくれた。


現在の母


現在母は76歳になり、あれから17年経った。
今では、誰も母がすい臓がんだったなんて
思いもしないくらい
すっかり忘れられている。

たまに会う親戚や友人からも
「あんた本当にガンだったの?
何かの間違いじゃなかったの?」と
言われるくらい元気だ。

孫のために死ねない!と
言っていた孫たちも27歳と25歳だ。
今、私たちは関東に住んでおり、
ずいぶん離れて暮らしているが、
頻繁に遊びにきており、来るたびに
孫と3人でディズニーランドに行っている。

行くたびにたくさん歩き、
乗り物に乗りまくっている。
ちなみに母は、ディズニーシーの
「タワー・オブ・テラー」
が大好きだ(笑)

こちらに遊びに来ることを
とても楽しみにしている。

あの時、
たくさんの素晴らしい出来事を
引き寄せていなければ、
今のこの生活はない。


思考が大切な理由

ガンになる前、
母は大きなストレスを
抱えていたと言っていた。
そのことで、
一人苦しみ悩んでいたそうだ。

きっと、そのストレスも
ガンを引き起こさせた原因
だったのかもしれないと。

だからなおさら
病気がわかった時は
明るく過ごそうと
心がけたのだと言っていた。


生きていく上で
ストレスのないことが一番理想的だが
現代社会においてなかなかそうはいかない。

いや、きっといつの時代だって
ストレスは存在していたはず。

いかにストレスを溜めない
考え方をするのか
自分の思考を
どのようにコントロール
するのかでストレスの度合いも変わる。
人生の楽しさも変わってくる。

いつもいつも
笑ってはいられないかもしれないが
目の前に起こっている出来事を
楽観的に観察できるようになると
大抵の問題は解決する。

どんな問題も
そこに隠されているものを
何かのヒントとして
捉えることができれば
大きなストレスには
発展しないと思っている。

そうすれば、病気が起こるリスクも
減るのではないだろうか。



最後に

人は必ず終わりの時が来る。
それが早いか遅いかは
神様が決めていることだと
思っているので
その時が来たら受け入れるしかない。

しかし、その時が来るまで
できることは精一杯やりたいと思う。

病気の家族のためにも
1日でも長く一緒に過ごしたいと思うから
できることは何でもしたい。

ただ、その時に
苦しむ考え方だけではなく
治る力をみんなで信じて
一時でも笑って過ごせたら
きっと明るい未来になっていくと
信じている。


こぼれ話

母のガンがわかった当時
10歳と8歳だった娘2人には
もう少し大人になるまで
伝えるつもりはありませんでした。
高校生と中学生になって
彼女たちも大人の目線で
祖父母のことを見られるようになった
タイミングで母のガンの話をしました。

2人ともばあちゃん子ですが
特に長女の方が顕著なので
すでにばあちゃんが
元気になっているにも関わらず
相当なショックを受けていて
話した時に泣いていました。

それからは
今まで以上に
大人として、母の大切な孫として
ばあちゃんのことを
大切にしてくれています。

2人からは
「あの手術の時
ちょっとした病気の割には
手術の時間も長かったし
手術の痕が凄すぎると思っていた」
と言われました。

子どもたちなりに
色々考えていたんだなぁ。

今、母のガンは消えてなくなり
私たちの記憶からも
消えかかっている・・・

母は今でも元気に笑って生きてます。
本当にガンだったのだろうか。
と思わせるくらいに。



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