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「おいしいものを食べに行こうよ」という言葉の偉大さ

傷ついたとき、たくさん怒られたとき、自己嫌悪に陥っているとき、自信が持てずに苦しいとき。そんなとき言われて一番うれしい言葉がある。

「おいしいもの食べに行こうよ」だ。

おいしいものは何でもいい。フレンチや中華やお寿司じゃなくても、とびきりおいしいおにぎりとか、あの店のポテサラとかでいい。

とにかく落ち込んでいるときに「おいしいもの食べに行こう」と言ってくれちゃう人が大好きなので、大好きな人に大好きな言葉で誘われた時点で沈んだ気分は半分以上解消されてしまうのだ。

「おいしいもの食べに行こうよ」の凄さ

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この言葉によって与えられるのは、文字数以上のうれしみと救いだ。

ひとつは、おいしいごはんを一緒に食べたい相手だと思ってもらえている喜び。おいしいごはんって、絶対に嫌いな人と食べたくなくないですか?わたしは絶対イヤ。だし、どれだけおいしくたって、嫌いな人と食べた瞬間おいしくなくなる。ごはんってそういうところがある。だからこの言葉で誘ってもらえた時点で、好かれていると解釈してうれしくなる。

ふたつめは、沈んでいるわたしを励まそうとしてくれている、その気持ちだ。それが「話聞こうか?」とか「できることあったら言ってね」とかももちろんうれしいんだけど、わたしは相談することが苦手だし、嫌な出来事を人に説明すると再び嫌な気分になるので、どちらかというとおいしいものを食べに誘ってくれたほうが元気になれる。

みっつめは、おいしい時間を誰かと共有できる幸せをわたしはちゃんと持っているのだ、という安心感。落ち込んだとき、一番かなしいのはひとりぼっちになる感覚だ。だけど同じものを食べておいしさを分かち合う相手が身近にいるならば、わたしはひとりじゃないと思うことができる。

「おいしいものを食べに行こうよ」って言いたいし言われたい

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なぜこの時期にこんなことを言い出したかというと、この本を読んだからだ。

この本、めちゃくちゃ良かった。おいしいものへの愛に溢れた文章は、おいしいものへの恋しさが込み上げる。

気軽に外食ができなくなって改めて思う。外で、自分たちが「ここだ」と思う店にお金さえ払えば、好きなだけ食べて飲んで喋って笑えていた頃は、なんて輝かしい日々だったのだろう。

今でもあの店のあれをあのメンツで囲みたい、あの店のあの酒とあのツマミをあわせたい、という欲が湯水の如く溢れてくる。

コロナめ。くそが。

自粛があけたら、絶対に言ってやる。そして言わせてみせる。

「おいしいもの食べに行こうよ」

まずはここに宣言しておくことにする。(誰か誘ってください)



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