感じることの訓練
感じることにも訓練が必要なのだと、
手当たり次第の文化に触れ続けることで、わかってきた。
その結果、一つの作品を、自分毎として、等身大で理解できるようになってきた。
今まで、芸術的な価値が高いとされる作品に触れて、「どんな感情になればいいか分からない。好きでも嫌いでもない、ただ分からない」という気持ちがほとんどだった。
ただ、最近変わったと思うことが3つあった。
1つ目は、代々木体育館に入った時。
入り口から体育館の内部が目に入った瞬間、感動で息が詰まって、涙が出た。圧倒されたのだと思う。難解だろう、分かるはずがないと思っていた現代建築に対して、感情が先に反応してくれたことに驚いた。
2つ目は、以前聞いた詩を思い出した時。
半年以上前に、1つの詩を聞いた。その詩を思い出す時、毎回特定のイメージが頭の中にあり、詩のクライマックスの瞬間に胸がきゅっとする感覚を覚えていることに気付いた。「ここがこの詩のクライマックス!」なんて頭では考えたこともなかったけど、感情が反応していたみたい。あとからその詩を解釈すると、確かに、その瞬間は緊張の頂点だと思う。詩はずっと、日本語ですら分からないと思ってた。実際、よく分からない。教えてもらった詩は英語(と、インドのどこかの言語)。
3つ目は、『セビリアの理髪師』と『フィガロの結婚』を見た時(YouTube)。
大学の時、先輩から「オペラは西洋芸術の真髄」と言われて、分からないかも、また、音楽やってるのに分からなかったらどうしようと不安で避けてきた。けど、折角セビーリャにいるのだし、頑張って見てみようと思って勇気を出した。結果、心から楽しめた。変に気張ることなく、滑稽なところは吹き出して、悲しいところは泣いた。
この3つの共通点は、長年自分の器では感受できないと思ってきたジャンルの芸術に対して、至って自然に心が反応したということ。
だから嬉しい、よかった、、で終わるのではないのですが、、ここまで来るのにおよそ7年、芸術の端っこを理解するきっかけを掴むのに7年なのです。
世間での評価に対して、「まあそうだね」と納得出来るようになるまで、あと何年かかるのだろうという気持ち。まして、芸術を生み出せるようになるには、一体どれだけの集中と訓練と情熱が必要なのだろうか、、、。
幸運にも自分の身に起きてくれた変化は、良いと評価される本、音楽、絵、映画などに触れ続けることで、
「この作品では、こういうことを言っている(頭による理解)」→「この作品に触れる人は、こういう気持ちになるはずだ(感情のラベル付け)」
というサンプル数が増えた結果によるものなのだと思う。
何が真かは分からないが、少なくとも、Test of Timeを生き抜いた作品には普遍的な要素があり、それを取り込むことで、自分以外のものを理解する物差しを手に入れるのだろう。
この「取り込む」過程を、「訓練」と言っているつもり。
・・・と、ここまで書いて、先人達が辿ってきた魂の上昇フェーズを、今のところ順当に上がって来られました、ということの記録でしかない気がしてきた。。
ところで、こういった訓練は、通常誰から施されるものなのだろう?
私は、たまたま周りにいた人から刺激を受けて、「彼女ら彼らと同じ景色を見てみたい」という気持ちで走ってきた。今でもとても尊敬している人たちである。そして、しばしば適切な作品を教えてもらった。この人達の助け、というか導きがなかったら、変われなかったと思う。
優れた作品に触れ、内に新しい感情を見つけ、より人間を理解できるようになるという抽象的な喜びに対して生きがいを見出すようになるのは、それなりの訓練が要るのではないだろうか。
発達(Acquisition)できなかったものは、学習(Learning)しなければいけないと言う真理について考え出すと、とても苦しい。
ずっと喉から手が出るほど欲しかった、家庭の文化資本、これについて苦しんでいる人がいたら、なにか手段を提供できるような人間になりたい。
でもやはり、多分今の自分には、芸術に対する敬意、畏怖が足りないのかと思う。芸術を物差しとして、成長だなんだと言うのは、とても恥ずかしいことをしている気がする。。
果たして、良い市民になれるのかどうか。。
頑張っていきたい。。。