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リアルな質感を持った舞台と在り方ー夢乃くらげ生誕祭2024「人の話を聞いて成長しよう企画」③役者でないー

「役者でない」こと、だまさんに会ったのは、随分、前のことだ。あるイベントの手伝いをしていたとき、同じように手伝いをしていた、だまさんに出会った。

結構前だったので、細かいことは覚えていないのだが、それからずっと繋がりがある。

だまさんは「役者でない」という名前で、演劇やパフォーマンスをしている。自分は演劇があまり好きではなくて、公演中あんまり集中できないのだけど、不思議とだまさんのパフォーマンスは集中して見られる。

個人的に演劇とドラマには、大きな違いがないように感じる。目の前で誰かが演じていても、どこか非現実的で、モニター越しに見ているのと大差ないように思うのだ。

しかし、「役者でない」のパフォーマンスは自分にとっては肌で感じるものがある。リアルな人間がそこにあることを感じるし、舞台と客席の境が曖昧な気がする。

そういうとこが好きなんだと思う。

今回は、そんな自分的にすごいことをやってるだまさんと話をした。話して、感じたことや思ったことを書きたい。

演劇とのこれまで

だまさんが演劇をやりたいと思ったのは、高校生の頃。演劇部はなかったが、文化祭でクラスの出し物として演劇をやった。脚本を書いてもらい、貰った役は開始5分で殺されてしまったが、大学に入っても演劇を続け、演劇サークルに。

その後、社会人になったはいいものの、奈良に住んでいたため、演劇がやれるところをなかなか見つけられずにいた。

しばらくして、図書館の朗読イベントで会った人が主催している商店街のイベントに出ることとなった。

しかし、体調不良で降板に。
「黙って行けば良かったのでは?」「いやでも…」と、もやもやが頭の中をぐるぐるし続けた。それは、同じところを輪のように回っている。
そのうち、ぐるぐるしている内容にパターンがあることがわかった。

パターンというのは、「A」について考えたら、次は「B」について考える。それからは「C」「D」となり、また「A」に戻って繰り返されるといった感じだ。
そして、同じことを考えていることにも気づいた。

「これのパターンを変えたら、ひとりでやれるのでは?」

そう思い、演劇のできるところを調べてみると「奈良演劇祭」を発見。出たいと思って応募用紙を書くことにした。そのときに「団体名」の覧を見て、書かなくてはいけないものだと思い込んで、考えたのが「役者でない」。

旗揚げ公演は無事に終わり、手ごたえもあった。
「これなら、どこでもやれる」。

その後、ある劇団の演劇に出ることになった。そこは体育館のような箱だけの場所に、舞台の全て、幕も袖も照明も、自力で組み立てて作るという体育会系な雰囲気の劇団だった。
「これは自分にはできない」と思ったが、演劇はやりたい。そして、規模が大きくなくて、自分のペースでできそうなひとりでの舞台なら「できるんじゃないか」と思い至った。

それ以降も、呼ばれれば他の団体の演劇に出ることもあるけれど、一人でのパフォーマンスを色んな場で行うことに魅力を感じ続けている。

羨ましい在り方

自分は、色んな人とこの企画で話をしていると、人には話し方の癖があり、考え方のパターンがあり、口にする言葉にもかなり違いがあると思うようになった。

自分が話すときは、「良く見せよう」とか「かっこよくしよう」とか思うのだけど、だまさんからはあまりそういう感じを受けない。

「嫌いな演劇は?」ときくと、「フィクションだから、と現実ではありえないような言動をするキャラクターが出てくるような芝居は嫌い」という答えだった。「そういうキャラクターはいわゆる『にぎやかし』のような、ストーリー上でも別に必要ないと感じる時も多い。もちろんその分、無駄に上演時間も伸びる。同じようにいわゆる『双子キャラ』や『コンビキャラ』というような、『一人でいいはずのポジションに複数人の役が登場する』のも『無駄』だと感じてしまう。そういうのを見ると『贅肉じゃん、落とせよ』と思う」と解説してくれた。

 この「贅肉」という言葉がすごく印象に残った。

自分に照らし合わせて考えるならば、エンタメ要素が多過ぎる占いのことや売れるためだけの創作物などを「贅肉」と感じる。

余計なものを削ぎ落とし、自分のやりたい気持ちに素直に従う。そうやって出来たものが好きだ。占いでも、絵でも、文章でも。

そう考えると、自分にはだまさん自身が「贅肉」のないものに見えているのかもしれない。

「贅肉」という言葉の中には、「嫌いなもの」「苦手なもの」「よく分からないもの」「価値を感じないもの」など、いろんなものを含んでいると思う。

ざっくりと言ってしまえば、自分にとって「無駄」だと感じることが「贅肉」なのだ。

昔、自分は「成長するということは無駄を削ぎ落とすことだ」と考えていた。それを意識していたときもあったけど、結局は「人にどう見られたいか」を気にして、素の自分に「かっこよさ」を着せている感じがする。

そんな自分とは対照的に、だまさんはただそこにいるだけのことを続けていて、なんだか生々しさがある。

正直、その「生々しさ」が何なのか分からない。自然にやっているとは思うのだけど、そういう在り方を羨ましく思う自分がいる。

「アフリカへ行ってくる」

だまさんは前にマルシェへ行っていたとき、たまたま太鼓の音がしてきて、なんとなく踊ったことがあった。すると、太鼓を叩いている人に「日本人で踊ってくれてのは初めて!」と感激されたそう。

その人はアフリカの人で、だまさんが冗談で「日本よりアフリカの方が合うかな?」と言うと「off course」と返事が。

それから「行ってみたい」とは思っていたものの、「行かなきゃいけない状態」にしないと、いつまでも行かないと思ったため、パフォーマンスの一部にすることとした。

日本で「アフリカへ行ってくる」という舞台をやり、その後すぐにアフリカへ行く。帰ってきて、すぐさま「アフリカに行ってきた」をやる。

という、流れで、アフリカに行くようにしたのだ。

「アフリカに行ってくる」は、京都で行った後、東京でも行われる。「アフリカに行ってきた」は東京でされる予定だ。

2/10(土)に「アフリカに行ってくる」の京都での公演がある。
ぜひ、チェックして行ってほしい。

こちらのフェスティバルで行われる
だまさんの演劇の案内

久しぶりに自分も見に行けそうなので、行きたいと思っている。だまさんには、無事に帰ってきて欲しい。

「役者でない」のSNSなどは以下をご覧ください。

いろいろ話してくれただまさん、ありがとう!
あんまり上手く書けなかったのですが、素敵な舞台なので、行ける人はぜひ体感してください。


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