もう二度と
ない。
途に倒れて呼び続けたことはない。
こういう「うた」を書かせれば、中島みゆきに敵うものはいないだろう。
会いたくて震えるなんて言ってる場合じゃない。
こういうことなんだよ。
会いたくてたまらない時には走り出してしまうし、去ってしまわれたら呼び続けるんだよ、名前を。
しかも途に倒れて。
ない。
ないよ、途に倒れてまでは。
でも名前を呼び続けたことがある。
半狂乱で彷徨いながら。
ガシャーン!
お風呂場からすごい音がした。
何事かと見に行くと、開けておいた窓の、網戸のところが枠ごと無くなっていた。
さっきまでそこから外を見ていたよね?
洗面台のところに乗っかって、上手に体を伸ばし、網戸に手をかけ外を見ていたよね?
ミィちゃん?
ミィちゃん!!
一瞬フリーズしたのち、そう名前を叫んだ。
外はもう薄暗い。
よれよれの部屋着のまま、サンダルで外に飛び出した。かろうじて裸足ではなかった。
網戸が落ちた辺りに行ってみる。
見事にいろいろ粉砕している。
すぐ隣のブロック塀の上に猫がいた。
暗くてよく見えない。
猫もこっちを見ている。
ミィちゃん?
猫はサッと逃げて行った。
目が慣れて来てわかった。
ミィじゃない。
そうだ。
さっきから猫の鳴き声がしていて、
ミィは網戸からずっと見ていたんだ。
目が開いてない時にうちに来て、猫なんて見たことがなかったから。
きっと何者かと驚いて、網戸に全体重を乗っけて見入っていたのだろう。
古いから。
家が古いから、ミィの重さとチカラに耐えかねて、それで枠ごと落ちたんだ。
ミィはどこにもいない。
ミィちゃん!!
半狂乱で名前を呼び、通りの方まで出た。
薄暗くなった空の下、川の横の小さな道へ行ってみたり、戻って反対の通りを行ってみたり。
ミィちゃん!!
大きな声で呼び、叫ぶ。
顔馴染みのご近所さんは誰も出て来なかった。
なにごとかとそっと聞き耳を立てていたかも知れない。
急いで夫に電話をかけた。
「ミィちゃんが、窓が、ミィちゃんが」
「これから帰る」
通りを右に左に彷徨いながら、胸は張り裂けそうになっていた。
外なんか知らない子なんだ。
なんにも知らないんだ。
自分が猫だということさえきっと知らない。
ミィちゃん!ミィちゃん!!
何度も叫んだ。
別の道へ行こうとした時、ハッと思いついた。
以前テレビで見たことがある。
動物大好き!みたいな名前の番組。
いなくなった猫を探す回。
猫ってそんな遠くへ行かない。
そうだ。
近くにいるのかも。
家に戻る。
玄関のすぐ横の、二つ並んだプロパンガスが目に留まる。
懐中電灯を取ってきて、その隙間を覗き込む。
いた。
ミィが縮こまってそこにいた。
ちょうど夫が帰って来た。
車を降りてきた夫に伝える。
「ここにおった……」
が、縮こまったミィは名前を呼んでも出てこない。怯え切っている。
網戸もろとも落ちた場所から、なんとかここまで来たんだろう。
通りに出なくて良かった。
うちの前はすぐ道路になっている。
さほど大きくはないけれど。
「ミィちゃん、お母さんだよ?
大丈夫だよ?」
出て来ない。
手を伸ばすとますます奥に入り込む。
そうだ!ちゅーるを持って来よう!
速攻でちゅーるを取って来て、ミィの方へ差し出す。
食いつかない。警戒している。
プロパンのところからこっちまで、誘導するようにチョンチョンチョンとちゅーるを置いていく。
あ、少しくんくん嗅ぎだした。
その調子その調子……。
じっくり待つ。
夫は一旦中に入る。
ゆっくりゆっくり。
焦るな。
ミィの体が少し出て来た。
もう少し……。
三分の一ほど体が出て来たところで、サッと引っ張って抱き上げた。
ミィちゃん!
ギュっと抱きしめたまま、急いで家に飛び込んだ。
ミィは私から飛び降り、玄関から一番近い部屋に逃げ込んだ。そして、小さくなってこちらを見ていた。
どれくらい経ったろう。
ミィは少しずつ動き出した。
なにかを確認するように、くんくん辺りを嗅いでいる。
そしてやっと部屋から顔を出し、こっちの方にやって来た。
もう大丈夫だ。
恋人に振られた日。
途に倒れはしなかったけど、泣き叫ぶ気力もなかったけど、そのあと時間が経ってから、心の中で泣き叫んだ。
走って戻って嫌だと言いたかった。
あの時も苦しかったけど。夜中に目が覚めたりしたけど。砂上を歩くような毎日だったけど。
ミィが落ちた日、消えた日、半狂乱で名前を呼んだ。
もう二度と、あんな思いはごめんだ。
ねぇミィちゃん。
のんきにこたつで寝てるけど。
もう二度と。