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人間失格、にも成れない僕という道化師もどき

僕は人生で2回、人間失格を読んだ事があります。1回目は小学生の時。文ストの表紙だったのと太宰治というキャラクターに興味を持って図書カードで買ったんだと思います。この時は正直そこまで内容を理解できていなかったと思うのですがそれなりに読みやすかった印象があります。2回目に読んだのは人生の辛さがわかってきた時。最初に買った人間失格の本は売ってしまったのですが、ふと書店で上記の写真の黒い装丁の美しくかっこいいやつを見つけてしまって魔力で買いました。この時は塾の補習と再テストと補習の時に自習室で隠れて読んでいたのを鮮明に覚えています。(僕の所の塾のシステムでは10時には強制的に帰らせてもらえるのでそれまで耐久でサボるために本を持っていっていた。)これがまた親のお金で来ている塾で自分が勉強を頑張らなかった事が原因の補習で本を読んでサボるというその罪悪感がいい塩梅に気持ちよかったんですね。そこ含めクズです。
ですが、太宰治と僕では決定的な違いがありました。それは、自分のクズさを開き直って作品という形にしてお道化ることで世間からの共感を得た太宰治と、自分のクズさを恥じ微妙に隠しながら謎のプライドで道化に堕ちる事を拒む、いや、堕ちるという考え方が僕の根本的なしょうもないプライド由来のものなのですが。変な意地で作品という形にせず、当然世間からの共感も得られないので人間失格という名札で売り出すこともできない歪な自尊心の塊でできているのが僕なんですよ。これが決定的な違いです。開き直ってお道化れば良いのに。その体験を自嘲して才能を生かして形にして作品にして世に出せば良いのに。それができない。だから、「人間失格」というレッテルすら貼らせてもらえない行き場のない人間が僕なんです。言い方が悪いかもしれませんが、クズでも世間に認められればそれは立派なその人物の「キャラクター」になります。そういう芸人とかいますよね。彼らは開き直って道化を演じているんです。しかしクズであることを微妙に隠し、道化を堕ちることだと認識し自他ともに何の価値も見出せない人間は、もはや人間失格ですら無く、道化師を引き立たせるための粗悪な背景のようなものだと思うのです。くそったれな世間の意見のほんの、ほんの小さい一部になるしかないんです。太宰治は作品の中、いや外でも彼自身が彼自身を自嘲していましたが、僕はそれができないんです。自嘲や皮肉のつもりが、自尊心や自分の人生の意味を模索してしまってどうしてもお道化を演じ切る事ができない。そんな、悲しい人間なんです。まぁ、僕のこのnoteもある種の僕が人間失格というレッテルを手に入れ、お道化を演じ切るまでの足掻きの過程でもあるのですが。
これを読んでいる皆さん「世間」は、どうぞ安全圏からこの人間失格者にすら成れない道化師もどきの文章をお楽しみ下さい…。

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