見出し画像

挫折をして強くなる⑤

ハッピーもアンハッピーも全部引っくるめて生きていこう。
森川耶美です。

しばらく間が空きましたが
またコツコツとnoteを書いていきます。

さてさて今回は
目まぐるしくステージが変わるわたしの人生のターニングポイントに、新しい登場人物がでてきます。

わたしの家族のような存在の
「シェアメイト」

「萩谷至史」さんの手掛けた舞台、「knock!!」との出会いです。

続きから書いていきましょう。


テーマパークの運営部に所属したわたしは、ホスピタリティに溢れた現場に心躍らせました。

「かしこまりました。」
「申し訳ございません。」
「いらっしゃいませ。」
と言わない世界に、驚きを隠せません。

幸い職場に恵まれ、
素敵な先輩に囲まれて過ごしていました。

本当に毎日が楽しかったです。

ですが私の中で『仕事』と『プライベート』はかなりハッキリしていました。

"わたしはこの場所に働きにきているんだ。彼の好きだった場所で恥ずかしくないように過ごすんだ。"

という固定概念が強く、全力で働きました。

頭でっかちで生真面目なわたしの悪いところであり、良いところでもありました。


無言で寄りそってくれる人"家族"と出会う

『一緒に富士急行かない?』

カレーを食べていたら、
突然目の前に顔が3つ。

れいなちゃんと他先輩2人。

目をパチパチさせるわたし。

『、、、、』

『考えておきますね』(笑顔)

同い年とはいえ、1年先輩のれいなちゃんに対して全力の社交辞令です。


120%行く気はありませんでした。
仕事の人と富士急なんて。

素をみせたくなかったんです。
だって友達を作りにきてるんじゃないんだもん、わたし。

入って3ヶ月ほど経過していたものの、そんなに馴れ馴れしく話しかけられても遊びに行くほど心を開いていません。

ゲストのために働くんだわたしは。
仕事上でのコミュニケーション以外に必要なの?

...割と冷めてますよね。笑
今でもそういうところあります。
目的がハッキリしているときは特にそう。

そんなかたくなな私に、れいなちゃんは強引でした。

れいなちゃんに後から聞くと、わたしと初めて会った時
『この子とは絶対に仲良くなる気がする。目が合ったときにそう思った。不思議な綺麗な目をしている子』
と感じたそうです。

そんなことを感じられているとは露知らず、見た目が派手なれいなちゃんにびびっていました。笑

"なんでも臆することなく先輩に対して自分の意見を言える。
そしてその意見も的を得ているのに、聞いてる側の気を悪くさせない。
みんなと満遍なく仲良くできる。
同い年。そして見た目がギャル。"

れいなちゃんはそんな先輩でした。

予定を都度聞いてきてくれるみんなのゴリ押しに取り敢えずうなずき、あまり気は進まないけれど富士急に行くことに。

そして、初めて『職場での友達』ができました。

とっても楽しかったんです。
ハイエースに乗ったプチ旅行。

職場で友達をつくったことがなかった私。


アパレルのときは毎日胃液が出そうなほど緊張していたあの頃とは嘘のように、
『ありのままの自分』
でいることができました。

"環境"は人が大きく関係する。
そう実感した日々でした。

そしてそこからYESと答えることの大切さを知りました。

やってみなくちゃわからない。
体験してみなきゃ感じられないことがある。

行ってよかったです。富士急。

そんな出来事から3ヶ月後、
お泊り会も経て「たかこ」とも仲良くなります。

居心地の良い時間。

話がトントンと進み、
れいな たかこ ゆみ の3人でマンションの一部屋を借りてルームシェアを始めることになりました。

画像1

一方その頃、実家に1人で住んでいる母は体調を崩し、首にリンパ腫を患っていました。

顎の下から首元がパンパンに腫れ上がり、呼吸をするのも苦しそう。

仕事もできなくなりました。

リンパ腫の病名は不明のまま色んな病院をたらい回しにされ、気づけば半年病院通いに。

どんどん症状が悪化していく母から、気落ちしたメールが届く日々がつづきます。

そしてついに、がん研でリンパ腫をとる手術をすることになりました。

母は手術ができることが嬉しかったようですが、わたしは手術後のことをモヤモヤ考えていました。

母子家庭で支援のない中、今後も母を金銭的な面で支えられるのか不安な気持ちも正直ありました。

テーマパークスタッフを辞めて正社員としてどこか会社に勤めることも考えます。


そして、ついに手術当日。

『行ってくるね』

わたしに手を振って笑顔で手術室に入っていく母。
すごく明るく言ってくれたことを覚えています。

母の『声』を聞くことが最後になるとは思わず、わたしも手を振って見送りました。


23歳、秋のはじめの出来事でした。

人生2度目の喪失感を味わう


手術後、
母の明るい姿はそこにはありませんでした。

ただ母の心拍数の音だけが響く室内。


全身麻酔から意識が戻らないのです。


姉が廊下を右往左往する中

主治医から言われた言葉は


「脳梗塞の疑いがあります」


わたしの心臓がドクドクと鳴り、口の中がカラカラに乾きます。


言葉が出てきません。


目の前にある取り出された母の一部だった腫瘍の肉の塊をボーッと見つめます。
この光景は、いまでも生々しく脳裏に残っています。


その後、母は脳外科の有名な病院に運ばれました。


職場から10日間の休みをもらい病院に通う日々が続きますが、
母は一向に目を覚ましません。

家に帰れば洗面所でうずくまり泣きながら過ごす日々。

どうしてもっと優しくしてあげなかったんだろう。
検査に一緒に行ってあげなかったんだろう。
忙しいを理由にして会いに行ってあげなかったんだろう。
ごめんね、ごめんね。


「ごめんね」しか出てこないわたしに、
シェアメイトはただただ側にいてくれて、
言葉をかけることもなく、寄り添ってくれました。

今思えばシェアメイトが居なければ、
わたしは背負うものの重さに耐えられなかったことでしょう。

今ここで生きていられるのはシェアメイトのおかげです。

そんなある日、
母が目を覚ましたと連絡が入ります。

病院へ飛んでいくと、
虚に空を見つめる母がそこにいました。


母の診断は
『手術により血栓が飛び、脳梗塞になった
右半身付随、嚥下、言語の障がいが残る』
というものでした。


わたしは自分を攻めました。
親孝行を今までしてこなかったことを激しく後悔しました。


この一連の出来事は
忘れることのできない生々しい過去の記憶となったと同時に、母への概念が変わるきっかけとなりました。


そして、
この頃の記憶の元、
わたしのリリースされたファーストシングル
母へ宛てた歌、『いつも』という曲を書くことになります。


そんなことがあってからも、
生きていく為に、お金を稼ぐ為に働かなくてはいけません。

ここからは、
モノクロの世界を再び経験する時期へと入っていきます。


『声』という
最大の自己表現を失う


ある日、喉に違和感を覚えます。


わたしの仕事は大きな声を出します。


演劇での発声とは異なり、ダイレクトに言葉をわかりやすく伝える「アナウンス」を日々していたことで変なところに力が入っていたのでしょう。

家でのひとりミュージカルも、大声で歌を歌うことも、だんだんとしなくなりました。

歌を歌うことができないのです。

歌うどころか、
普段の会話すら出来なくなりました。

全く声が出ません。

有声音を出そうとすると息がシャーシャーと混じり、声をだすことがとても大変な動作になりました。

首の筋肉がつりそうになりながら声を出し続けた結果、咳をすると痰に血が混じるようになりました。

さすがに危機感を覚えたわたしは耳鼻科に通い詰め飲み薬(抗生物質とステロイド等)を服用していましたが良くなる兆しが無く、東大の音声外来の紹介状をもらいました。

そこで診断されたのは、
『慢性喉頭炎』
炎症が癖付いてしまっていて、治るのに時間がかかると言われました。

そこで炎症を抑えるための
ステロイド注射を声帯に二回打ち、
仕事を休み何日間か喋れない生活を送ります。

飲み薬もステロイド。

ステロイド漬けの生活を1年送りました。


抗生物質は良い菌も悪い菌も殺します。


とても体が弱くなり、すぐに風邪をひく体になりました。

喋りやすくはなったものの
残念ながら酷使されたハスキーボイスは治りませんでした。


自分の声が嫌で嫌で、

声の出ないストレスから仕事のやる気もなくなりつつあります。


そんな中、
短大の友人から久しぶりに連絡があります。

『わたしの友達のバースデーライブで歌わない?』

こんな声で?
もうパフォーマンスやってないんだよ。

『昔歌やってたじゃない!できるよ』

背中を押されて出演することに。

はじめましての方のバースデーライブに呼ばれる、なんともカオスな状況。

久しぶりのステージ。
声が出ない中の本番。

でも、出ないなりに精一杯のパフォーマンスをしました。

手が震えながらも、
終わった後は「やりきった」と思えるステージとなりました。

そんな中、そのライブハウスの運営やイベント経営をしている方に声をかけられます。

「とても味があって素敵だったよ。
このライブプロジェクトに参加しない?」

*月に1度ステージにたつライブ活動を1年行う
*半年に1回のZepp tokyoでの審査会に通過したらシングル曲を出せる

『スタ杯』というプロジェクトでした。

治りかけの喉のまま、出した答えは
「YES」

このとき、
YESを出していなければ今のわたしはありません。

お金もない、母の介護の手続きもある中、
ライブ活動をしているのはバカげてると言う人ももちろん居ました。


なぜYESを出したのか。


それは
『声が出なくても、人に伝えられるものがわたしにはあるんじゃないか』
という確証のない自信です。

わたしには数々の"経験"という武器がある。
沢山の"失う"ことから学び、経験をしたことで、
わたしは昔よりもはるかに強くなっていました。

ですが、ここではまだ自分の心の成長に気づいていません。


この後、更なるターニングポイントが訪れます。
これが、入院をして喉の手術を決意するきっかけとなるものです。

それは、
萩谷至史さんの作り出した作品との出会いです。

死ぬ運命の人と、生きていくことを選んだ人の物語。舞台『knock!!』

以前書いたようにわたしは東宝ミュージカルアカデミーを卒業していません。

ですから同期と会うことは少し気まずいなぁと思っていたんです。

そんなある日、突然同期から連絡がきます。

「公演ごとに役をスイッチして演じる2人芝居を観にきてくれませんか?」

なんと、同期2人がどMなことにチャレンジしているではありませんか。

気まずいなぁなんていうことは捨て、
板橋ファイト!へ足を運びます。

そして、そこでわたしは人生の分岐点となる作品と出会うのです。

『knock!!』
田舎の病院で出会う、性格の違う2人の物語。
この2人は自分の人生に決して背を向けず、最後まで自分自身と戦い続けるのです。

そんな2人の命の物語に触れて、わたしは強く思いました。

『わたしは生きていくんだ。
誰かのために生きてるんじゃない。
きちんと選択していく権利があるんだ。』


そして萩谷さんに
「素晴らしかったです。いつか萩谷さんの舞台に立たせてください!」
と直接オファーをしました。


初対面なのに。笑


いまは萩谷さんと2人で企画をする仲になっているなんて、あの頃のわたしは知る由もありませんね。
そして、自分のプロデュースで『knock!!』を公演する夢が叶うことも。


さて、ここからは一気に話が進みます。


"思い立ったら即行動。
YESと言う。
経験を武器にする。
わたしの為に生きる。"

選択する自由を知ったわたしは、テーマパークのアルバイトをやめます。

そして、喉の手術を受ける決心をするのです。

シェアハウスに住んでいた頃の友人の力を借りて、喉の病院を探しに探し、一度は京都の病院まで行くことも懸念したほどです。

そこで見つけた一つの治療に、
わたしはかけることにしました。

日本で1人しか受けていない、
全身麻酔での”ベーシックFGF”の声帯注射。

結果手術は成功。

3カ月喋れない日々を送り、現在も声帯のリハビリを続けている毎日です。

そんな喉の手術を受けてから、もうすぐ3年が経とうとしています。

そんな、"わたし" です。

挫折と経験は
全て栄養となり糧となってきました。

強くなる、というか、
いつの間にか強くなった。

という方が正しいのかもしれません。

「経験をすることが人間性を深めることになるんですよ。」なんて偉そうなことは言えません。

ですが、わたしが"経験"して感じたことにより考え方がどんどん変わっていったんです。


はじめの一歩を踏み出すことがこわいでしょうか。
失敗することがこわいでしょうか。

自粛のご時世、余計に足踏みしてしまう気持ちもあるでしょう。

ですが、わたしは、
今までの経験を糧に強く強く生きます。

『生き方を変える時代』がきています。

一歩を踏み出して失敗したとしても、
"失敗"という経験ができたことになります。

前を向いて生きましょう。

さてこのテーマ、長くなりましたがこれにて終わります。

森川耶美のnoteを読んで、
「こんな人間もいるんだなぁ」と思ってくれたなら幸いです。

ハッピーもアンハッピーも全部ひっくるめて生きていこう🌈

森川耶美

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?