ブッククラブ〈Language Beyond〉 #32—橋本治『巡礼』

○開催日時 2024年1月21日(日)16:30〜18:00(jitsi meetでオンライン開催)
○課題本 橋本治『巡礼』
◯参加者 6名

開催メモ(担当:工藤順)

何者かにならなければならない、のか、について

橋本治という人の本をじつは読んだことがない、ということじたいが世代ギャップを感じさせる事実でもあるでしょうし、この本の中で描かれるいわゆる「昭和」というものに実感を感じるかどうかもまた世代間で濃淡あるものであって、小説中の登場人物とほぼ重なるような時代を過ごしてきた方も、平成生まれの者もいる読書会の場でこの作品を読む経験は想像以上に面白い経験でした。平成生まれの人文学徒であるわたしにとって、「昭和」と聞いてぎりぎり想像できるのはバブル前後の景気のよい文化とその産物(「表象」)であるのですが、じつはそんなものはある時期の「東京」に現れた特異点でしかなく、当時の通信事情もあわせて考えれば、「東京」とほぼ断絶されて圧倒的に広く全国にあった「その他大部分」の場所についての想像力に欠けていたことを思い知らされます(すごく単純化して言っています——例えば最近高野文子『るきさん』を読んだ時、この漫画の明るく退屈な「東京」の雰囲気はなんとなくわかるような気がしたのですが、『巡礼』が書くようなこと、空気感についていかに無知であり疎遠であったかを今回あらためて実感しました)。

わたしがこの小説を読んで考えたのは、この時代に「普通」であった人にとって何者かであることの意味、そして現代でそれはどうか、ということです。何かを発信する手段がなく、人間関係において「~~家の~~」であることで存在を認められることが普通であり、そこで何者になることはめったにできないし、そもそも何者かになる希望すら持ちようもないことであったかもしれません。しかし、SNSの時代、誰もが何者かになりたくしかも何者かにはたぶんなれる時代になって考えてみると、何者かになれることはまずはよいことであるかもしれない(自分の場所を自分で選びなおせるから)けれども、まあ何人かのYouTuberを見てみればたぶんわかるように、人は基本的には大して面白くないのであって(しかしそういう人こそウケるのでもあります)、わたしはつまらなく退屈なわたしを生きるしかないのですが、そのつまらなさに辛抱することに辛抱できなくなってきているような気もするのです。それは悪いことか? 「悪い」と回答すると、それは人の人らしい生き方を否定することになるので、わたし自身はしたくないし、しないほうがよいと思う。しかし無条件に「良い」か? 良くは、ないでしょう。あまりに犠牲にした(している)ものが大きすぎる。何を犠牲にしているか。単純素朴に言えば、人と人の信頼関係であったり、「寛容」であったり、「社会」だったりするかもしれない。矛盾のある存在としての人間との付き合いをやめて、摩擦の少ない付き合いの中に閉じこもることを選ぶことにもなりかねない(あるいはさらに細分化して、ある人の「この側面だけ」と付き合う、とか……)。それに、とても肯定的な意味合いにおいて「何者ではない人たち」がたぶんずっと社会を成り立たせてきて、それが自分を差し置いて他者をケアすることを可能にしてきたようにも思います。では、今はどうか。今後は? と考えてくると、非常に身に差し迫る、しかも出口の見えない問いが突きつけられる作品でもあるのでした。

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