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都市伝説「名捨て人」

私――松本明音の地元に、こんな方言がある。

「なすて」

これは、一般的にいう所の「なんで」「どうして」などと同義であり、相手の言っていることが理解できなかった時に使われる言葉だ。
私は実家のある田舎で、両親、祖父母、または近所の人たちがこう言っているのを聞いて、よく真似をしていた。
「なすて、なすて、なすてー!」
こんな風に無邪気に走りながら「なすて」と口ずさんでいた。
父方の祖母もそれを笑いながら見ており、嬉しそうにコロコロと笑う顔を見て、私はさらになすてを繰り返していた。

そんなある日のこと。
すっかり「なすて」にハマってしまった私が、道行く人全員にそう言って回っていたら、唐突に祖母から「やめんか!」と激しく怒られたことがある。
その時の私は、周りの人に迷惑かけたから、怒られたのだと思っていた。
だが、それは私の勘違いであった。
なすてには、もう一つの隠された意味があったのだ。
私がそのことを知ったのは、里帰り出産で帰ってきた、平成最後の年のことだった。

蝉の声がミンミンとうるさい中、車から降りた私は、久しぶりに祖母と祖父に、そして愛犬であるイチゴに会った。
送迎してもらった両親に、荷物を運んでもらい、約二年ぶりに実家の居間に腰を下ろした私は、慣れ親しんだ空気で肺をいっぱいにした。
夫は会社のある東京で仕事をしてもらっている。私は、都会よりも田舎の方が心安らぐために、夫には悪いがこうして戻ってきていた。
そうしてぼーっとしていると、祖母と祖父の二人が私の元に歩いてくる。
最近は、認知症やら寝たきりやらテレビで報道されているが、うちの二人はまだまだ元気のようで、しっかりとした足取りだった。
御年八十歳と七十九歳、長生きしてほしいと思う。
年上女房の祖母が切ったスイカを私に持ってくる。
おぼんの隅には塩の入った小皿。私は、慣れた手つきで受け取ると、塩を振ってからかぶりつく。
スイカの甘さが身に染みるようだった。
すると、祖母も近くに腰を下ろし、スイカを手に取る。塩を取れと手で合図しながら、それに従うと、祖父もまた流れに加わってスイカを手に取った。
雑種犬であるイチゴがそのおこぼれを貰おうと、皆の前でスタンバイし、私はそんなイチゴに時折、くいかけを渡してやりながら祖父母との会話に花を咲かせる。
積もり積もった話、というのも案外話してみるとすぐにネタが尽き、最終的には夫へとの愚痴と新婚生活のアドバイスと言った話に変化していった。
男は女の尻にした方が楽という言葉は、祖母にべた惚れな祖父から頂いた言葉だ。あとで夫にも聞かせることにする。
「あかねー」
そんなことを考えていると、母から名前を呼ばれる。
明るい音と書いて、明音。
私は名前の通り、母に明るく返事を返すと、食べ終わったスイカを片付けて母の元に向かった。
祖父母はそのまま居間に残るみたいだ。
「なに、どうしたの?」
私は母に呼ばれ、廊下の先にあるお風呂に顔を出す。
母は、私の荷物から取り出したドライヤーを二つ持つと、訊ねてくる。
「これ、どっちがあんたんと?」
「ん? それ、どっちも私のだけど」
「なすてふたつ?」
「ああ、一個はそのまま家に置いておこうかなって。最新型のドライヤーは私が使って、古い方のドライヤーは母さんがそのまま使って。家のドライヤーももう随分と古いし、手入れをするなら絶対にこっちの方がいいから」
「ふーん」
「それよりも」
持ってきたドライヤーが珍しいのか、色んな角度から眺めている母さんを置いて、私は懐かしい言葉を口にした。
「なすてって、久しぶりに聞いたなぁ」
「そういや、あんたは昔、そう言いながら町中走り回っとったけん、そうかもね」
「えー、私、そんなことしてた?」
「しとったよ。婆ちゃんに怒られて泣いたの、覚えとらんと?」
言われてみれば、ぼんやりとだが、祖母に怒られた記憶がある。
もう昔のことだからと、忘れていたが、なるほど確かに泣かされた記憶がある。
私は「ははは」と笑い、母を連れてまた居間へと戻った。
そして、車から荷物を下ろし終わった父も含めて、家族五人、大きめのテーブルにあつまって雑談をした。
昔懐かしむため、私は祖母に向かって聞いてみた。
「どうして昔、なすてって言っていたら怒られたの?」と。
祖母は、そんな昔のこと覚えていないのか、完全に知らんぷりをしていた。
私も忘れていたぐらいだし、そうだよね。とその話題は終わった。
その後も私は、久々の家族の会話に花を咲かせた。


その翌朝ことだった。
起床をして私が洗面台で顔を洗おうとすると、先客がいた。
祖母だ。
「おはようおばあちゃん」
私は朝の挨拶をすると、祖母が顔を洗い終わるのをじっと待った。
「……」
しかし、祖母はそこから動こうとはせず、ぼーっと鏡を眺めていた。
あんまりにも長い間自分の顔を眺めていたので、「おばあちゃん?」と声を掛けてみる。
「おばあちゃん、もしもーし、おばあちゃーん」
私が何回か呼びかけると、祖母はようやく意識がはっきりとしてきたのか、
「おや、明音、かえって来てたんか」
と呟いた。
最初は、寝ぼけているなと思った。
すこし強引に隣に入り、棚の中から取り出したハンドタオルを水で濡らして、祖母の顔に当ててやる。
祖母はいつもそうして顔を洗っていた。
「ほら、早く顔を拭きなよ」
「……本当に明音ね」
「もう、なにを言っているの? 昨日帰ってきたんじゃない。忘れちゃったの?」
私は深いため息と共に、祖母にそう言った。
しかし、祖母は本当になんのことか分からないという顔をしていて、タオルをそのまま洗面台にばしゃりと落とした。
「ちょっと、おばあちゃん!?」
ただならぬ祖母の様子に、私は慌てる。
しかし、その本人はタオルを落としたことに目もくれず、そうか、そうかと頷いていた。
「おばあちゃんどうしたの?」
「明音、ありがとうねぇ……」
「……?」
私の頭にはてなが浮かんだ。
何に対してのありがとうなのか、濡れタオルを準備したことだろうかと思った私だったが、祖母から出てきた言葉は違っていた。
「昨日、言ってくれたもんの。『なすて』って、おかげで助かった」
「いや、助かったって、『なすて?』なんで今、それが出てくるの」
私はとりあえずここじゃ話にならないからと、祖母に顔を洗わせ、居間へと連れて行った。
テーブルの前に座る祖母にお茶を入れ、少し離れたところに私も座る。
祖母はお茶を一口飲むと、私に問いかけてきた。
「昔なぁ、明音に怒ったことがあるじゃろ?」
「ああ、なすて事件ね、うんあったね」
昨日の雑談で、幼い頃の事件はそう名付けられた。
祖母はそのことに頷くと、ぽつり、ぽつりと語り始める。
それは、この地方に伝わる伝承のようなものだった。
「名前というものはなぁ、その人そのものを現すと、昔から、見なされとるんじゃ。人生と共に歩んできた名前は、年月が重ねれば重なるほど、魂に刻まれていって、いつのにか名前とその人の人格が完全に一つになるときが来るんじゃ。ちょうどおん(自分)のようにな。それで、ここから近く、小川を渡った先に山があるじゃろ?」
「うん、あるね。行ったことはないけど」
「それでええ、あそこには『名捨て人』という神様がおるんじゃ」

――名捨て人。

初めて聞くその名に、私は、興味を持った。
祖母の話は、まどろっこしく、分かりにくい話だったが、その名捨て人のことはなぜか、印象に残った。
祖母の話は続く。
「名捨て人は、人であった者が名前を捨て、霊的な存在になった者のことでな。山にいる名捨て人の数が増えれば増えるほど力を増すと言われておって、時折下界に降りてきては名捨て人を作り出そうとするんじゃ」
「作り出す? どうやって」
「名捨て人は人に憑りつく」
私の質問に、祖母は簡潔に言い切った。
「名捨て人はな、姿、形、声、全てを変質させることができて、憑りついた人間の記憶を引き継いで、その人に成り代わることができるんじゃ。そうして、成り代わって、周りに溶け込んでいって、いつの間にか姿を消しとる。憑りつかれた人は、皆山に向かう」
「え、それって……」
「皆、死んどる」
私は、そのあまりの衝撃的な内容に驚きを隠せなかった。
この町にそんな伝承があったなんて知らなかったし、なにより、祖母の発言にどこか真剣さを感じ取れてしまったからだ。
「でも、私、山に行ったなんて……そんな事件、知らないんだけど」
もしもこの現代で、そんな事件が起こったらただ事ではすまない。そう言った私の言葉を祖母は簡単に認める。
「それはそうじゃろ」
「え」
祖母はお茶をひと飲みし、テーブルに置いてから私に言った。
「今、この町で言われとる『なすて』、あれは、他人に名捨て人が憑いていることを知らせるための言葉じゃ」
「……」
「名捨て人に憑りつかれとる間、本人には意識がなくなっとる。じゃがそれは眠っているだけで、声を掛けられたら起きるんじゃよ。ただの言葉じゃ駄目、とある言葉が必要なんじゃが、それが」
「なすて? ってこと」
祖母は頷いた。
「ふーん」
どこまで本気なのか知らないが、私は、祖母の話を聞いてひとつ疑問に思ったことがある。
「じゃあなんで昔、私怒られたの? なすてで帰ってこられるんならいいことじゃないの?」
そう、もし仮に、その話が本当だとして、だとしたら私の行動は間違ってはいないはずなのだ。ましてや人生において、あれほど泣かされた記憶はそうそうなかった。
祖母は私の質問に対して、若干顔をしかめると、口を閉じた。
え、そこで黙るの。と思った私だったが、そこに祖父が現れ「そこから先は儂が話すわい」と言ってきた。
祖父は祖母の顔を覗くと、一言。
「そうかい、昨日はおまえが憑りつかれたんかい」
と、当たり前のように名捨て人の存在を認めていた。
「スイカを覚えておるか?」
それから祖父は、私に向き直り、そう訊ねてきた。
スイカは、私が小学生にあがる前に亡くなったいちごの母親だ。
自由奔放ないちごとは違い、大人しくいつも何かと私に世話を焼いてくれた優しい柴犬だった。
でも、なんでスイカ? そう尋ねる私に祖父が答える。
「スイカは、ありゃ霊感が強くてな。儂らが見え取らんものをよぅ見よった。んでな、あん時、明音の周りに名捨て人が集まってきよった」
「……はい?」
私は、突然の言葉に心の底から理解できないと首をかしげた。
確かに、あの時、何人か周りに人がいたが、そんな大事だとは全くもって考えていなかったのだ。
「スイカが目ざとくそれに気づいてな。滅多に吠えんスイカがわんわん吠えておったわ。その騒ぎを聞きつけて婆さんが迎えに行って、そんで、怒られたわけじゃな」
「いやいやいや、だからなんでそれで私が怒られるの? 名捨て人に憑りつかれた人たちからしてみると、いいことじゃないの?」
「確かにそうなんじゃがの……」
祖父はそう言うと、歯切れの悪いところで言葉を切った。
どうしたもんかと困る祖父に、今度は祖母が話し始める。
「名捨て人はな、神様なんじゃ。そんで神様はな、自分の楽しみを奪われると怒るんじゃよ。だからあの時、下界で楽しんでおるところに、ふざけて遊んでおった明音が邪魔じゃったんじゃ。あんまりに神様を怒らせると、明音が山に連れていかれてしまうと思ったから、おんは怒ったんじゃ。あの時に理由を言わんかったのは、神様がまだそこにおったからじゃ。今では悪いことをしたと思っておるよ」
「はぁ……」
私は、悲しそうにそういう祖母を見て、なんとも気の抜けた返事をした。
こう、なんとも言えない気持ちだった。
昔怒られた理由が、この町の伝承の由来だと聞かされて、それを信じろと言われる方が、無理があるというものだ。
だが……。
どうにも真実味を感じさせる両者に当てられ、私の腕に鳥肌が立っていた。
二人の話す内容が、会話がどうにも本気に感じられ、私は、この話が本当のことなのかも知れないと考え始めていた。
もしもあの時、スイカが吠えて知らせてくれなかったら、祖母が叱ってくれなかったら、私は一体どうなっていたのだろう?
もしかすると、昔、祖母が聞いたという山に命を捨てた人たちの一員になっていたかもしれない。もしくは私が名捨て人になったかも知れない。
そう思うと、急に寒気がしてきた。
腕をこする私を見て、祖母がお茶を差し出してくれた。
「お腹だけは冷やすな」
祖母は少し膨らんできている私のお腹を見ながらそう言った。
私が寒がっていることに気づいた祖母は、「大丈夫じゃ」と私を安心させるように言葉を掛けてくれる。
「安心せい、名捨て人に選ばれる人は、年取りだけじゃ。明音やそのお腹の子のような、まだ若いもんには、名前と魂がくっついておらんで、憑りつくにも憑りつけん」
「なにそれ、将来は憑りつかれる前提なの?」
「そうじゃの」
祖母はそう言って、茶目っ気のある顔で笑った。
「あ、そうそう忘れておったわ。名捨て人に憑りつかれる条件がもう一つあってな」
「なに?」
「自分の名前が嫌いな人は、問答無用で名捨て人に目を付けられるんじゃ、そんで大人になったら憑りつかれやすくなるから、気をつけるんじゃよ」
そう言って、祖母は最後に言葉を付け加える。
「じゃから、お腹の子には良い名前を与えてやんなさい」
「捨てたくないような、立派な名をな」
祖父母の言葉に私は答える。

「この子には、自分の名前に誇りをもって欲しいなぁ」

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