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米津玄師はどうしてここまで頑なに“米津玄師”であるのか

褒め言葉である。

約2年10か月ぶりにリリースされたアルバム、『STRAY SHEEP』。
『Lemon』『パプリカ』といった彼の知名度をお茶の間レベルまで連れていった楽曲もアルバムとしては初収録となっており、米津玄師のアルバムをしっかり聴くのは今回が初めて、という人も案外少なくないかもしれない。

早速『STRAY SHEEP』を聴いてみると、何とも徹底して“米津玄師”であることや。
まるで道端に生えていた野生の米津玄師をそのまま搾り上げて果汁100%ジュースを作り上げたくらい、米津玄師である。

序盤で米津玄師が米津玄師であることに感嘆し、中盤であまりにも米津玄師なので笑えてきてしまって、終盤でもなお米津玄師であることに泣きそうになる。
前作までは彼が影響を受けているというBUMP OF CHICKENなんかがもうちょっと気まぐれに顔を出していたような気もするが、本作は執拗なまでに米津玄師である。
野田洋次郎が文字通りに顔を出している『PLACEBO』ですら、然り。

歌声が好き、歌詞が好き、イラストが好き、長い前髪が好き、など米津玄師を好きな理由は人それぞれあるだろうけれど、やはり彼について特筆すべきは作曲センスだろう。
それも殊に、メロディーである。
もちろん音作り面も相当なこだわりが見受けられるのだけれど、そんな音作りですら追いついていないように思えるほど、メロディーのセンスが卓越しているのだ。

『パプリカ』『Flamingo』を初め、最近の米津玄師はヨナ抜き音階・ニロ抜き音階といった和風な音階をよく用いているわけだが、15曲収録という大ボリュームな『STRAY SHEEP』を通じても、彼はこの音階を多用している。
ヨナ抜き音階・ニロ抜き音階は、簡単に和風な楽曲を作れる魔法のような音階である一面、どう足掻いても和風な楽曲になってしまうという癖の強さを持つ。さらに「ドレミファソラシド」の音階から二音抜いた五音音階のため、単純に音の組み合わせパターンが減る。
一般的には、どうしてなかなか同じような曲に陥りやすい音階だ。

しかし、米津玄師の音楽は同じような曲には陥らない。
まぁ『カムパネルラ』にはどこか『パプリカ』を思い起こさせるような音の動きもあったり、もちろん重箱の隅をつつけばいくつかは出てくるのだろうけれど、それでも1曲1曲すべてが私たちの知っている米津玄師であると同時に、1曲1曲すべてが私たちの知りたかった米津玄師でもあるのだ。

イヤホンを耳に隅田川の川沿いを散歩しながら(気持ち程度の運動不足解消として最近しばしば散歩をする)、何となく小室哲哉を思い浮かべる。
そういえば「小室サウンド」という言葉にも象徴される通り、小室哲哉も頑なに“小室哲哉”であった。

小室ブーム最盛期の頃にまだ物心がつくかつかないかくらいであった私は、どちらかというと小室ブームの瓦解の方が強烈に印象に残っている。
「いい音楽が作れなくなっちゃったのよ」と何様目線で語る母親を前に(当時はまだ何様目線とは思わなかったが)、幼い私は本気で「この世から“いい音楽”というものがなくなってしまったのだ」と思い込んだ。

当時小室哲哉は、元々の本人の好みでもあり、しかしJ-POPに昇華するには些か早すぎた抑揚の少ないダンスミュージックを模索していたようで、そのタイミングがTRFや華原朋美などの相次ぐ小室ファミリーからの離脱と相まって、急速にブームを終焉に向かわせたという。
その後も詐欺事件やら引退表明やらで世間を騒がせながらも、それでも先日乃木坂46に提供した『Route 246』は寸分違わず頑なに“小室哲哉”で、私たちはちょっと目に涙が浮かぶくらい安心してしまうのだ。

米津玄師が“米津玄師”である道を選ぶことは、それはそれで茨の道なのだろう。
今年のツアーが中止になったことで、『STRAY SHEEP』には、本来収録予定だった楽曲の代わりに短期間で書き下ろされた楽曲が複数収録されているという。
本作でここまで米津玄師を“米津玄師”せしめたのは、昨今の世情なのかもしれない。それが彼にとって、私たちにとって、幸なのか不幸なのかはまだ分からないけれど。

川沿いの野良猫が、突然訪れた猛暑のせいでダレている。人間界ではあんなおじいちゃんまで一生懸命走っているというのだから、野良猫にももうちょっと頑張ってもらいたいものだ。
図らずやイヤホンから『感電』が流れ始め、ワンッという鳴き声がする。

いずれにせよ、あの日幼い私が「この世からなくなった」と思った“いい音楽”が、確固たる意志で、今も変わらず生み出され続けていることに私は心から感謝をする。

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