空が空であるように

 あたしは今寝ぼけている。
何が起こったとしてもそれは間違いでしかなく。誰のせいでもないから、誰も何も言えないし言わせない。今あたしの上に乗っているのが姉の夫でも、下で甘い夢に溺れるのが姉ではなくあたしでも。
 コーさんはひたすらに無言で私を抱く。
あたしは名前を呼んで欲しかったけど、今呼ばれると困るからやっぱり無言で、でも時折求愛の合図のように声を上げる。だって泣くのはちょっと違う、これは夢なのだ。
あたしは今寝ぼけているのだから。


 長い長い坂の上に学校がある。
1年前に入学した町に2つしかない高校のひとつの公立の方だ。
もうひとつの私立高校は案外近くに建っているけれど、校風はまるで違う。
公立の方が自由だ。
スカートもみんな短いし、バイトだってできる。
受験を頑張った甲斐があったなとつくづく思う。
坂の上を見上げるように顔を上げると坂の先は空だった。
まるで空へ続く道を歩いているみたいで、晴れの日は特にお気に入りだ。
そんな話を幼馴染みで大親友のゆっきーに話すとうんざりされる。
彼女は運動は得意なのに、この長い坂を登るのは大嫌いなのだそうだ。
ゆっきーが長くてゆるく巻いたちょっと茶色がかった髪をシュシュでまとめる。
今日は暑くなりそうな、夏休み前の終業式。
 「美月そう言えばバイトするんだっけ?」
はじけるように浮き足立った教室で唯一淀んだ渦を巻いているゆっきーが私を睨む。
「お姉ちゃんとこで、牛舎の手伝いするよ。ゆっきーもくる?」
「いや、動物は無理。」
下敷きをうちわがわりにしながらゆっきーが即答する。
わんこみたいな可愛い彼と別れたばかりの彼女の心はまだ渦を巻いているようだ。
あたしは適当に笑っていると、廊下から内田センセイが手招きをしている。
ゆっきーと目で(マジきもい)と言いつつ、仕方なさを体現することも忘れずに内田についていく。教師と仲のいい子ははっきり言ってダサい。
所属する美術部の顧問の内田は、準備室に椅子を引っ張ってくるとあたしを座らせた。
きっと聞かれることは決まっている。
開口一番にこう聞いてくるのだ「美冬はどうしてる?」と。

9つ年上の姉、美冬は酪農農家に3年前に嫁ぎ、夫の農業を手伝っている。
夜は母の介護をするために実家へと通ってくる。
母は脳梗塞で下半身と右上半身が不自由なのだ。
内田は姉の同級生で、今現在は姉の恋人で不倫相手だ。
実家へくるついでに内田に会う。
そんな生活は3年前からずっと続いているのをあたしは知っていた。

あたしは内田にキスをする。
内田は姉にそっくりな妹にキスをする。
あたしの大嫌いな姉の「唯一の男」が自分に触れるという優越に似た背徳感が私を窒息させるほど満たしてくれるのだ。こんなに素敵な行為はやめられない。
内田が私の中で泳ぎ疲れた頃、終業式は終わりを告げたようだ。
ゆっきーが「災難だったね。また部活でろって説教でしょ?」とラインを送ってきたから。


満天の星々がまるで今にも降ってきそうな夜だった。
あたしは青々と短くかられている牧草地の上で大の字に寝転んだ。
今日も疲れた。牧場のバイトは過酷なのだ。
「美月ちゃん、寒くないの?」
よいしょ、という掛け声とともにコーさんが私の横に腰掛けた。
「今夜は月が綺麗だね」と嬉しそうにいうから、夏目漱石のことを思い出したけれど飲み込む。
ほんとは気づいてるのだ。コーさんのことが好きだっていう痛い現実に。
内田に触れられるのは好きだけど、コーさんには触れられたいより触れたいのだ。
短い髪、ゴツゴツした手。尖った耳にちょっと伸びかけたひげ。
厚い胸板も、黒い肌もみんな触れたくても触れられない。
ううん、触れてはいけないのだ。
この世には数多のルールがあるけれど、このたった一つの約束を破ったら
きっとあたしは消えて無くなってしまう。人魚姫のように泡になってしまう。
「牛舎の電気消したら戻るから」私は一番可愛くみえる顔で笑ってみせる。
コーさんは頷いて家に入って行く。
 牛舎の前まで来ると、思いっきりドアを蹴飛ばした。
それまでうるさいくらいに揺れていたドアから姉の笑い声がする。
「美月よ。見張ってくれてるの」
隙間から内田と目があったけれど、なぜだかコーさんの笑顔を思い出して胸がキュンとなった。


朝、コーさんが珍しく私を起こしにきた。
お姉ちゃんが「お母さんのところ」に泊まったからだ。
寝たふりをしようかな。
するとコーさんが体を揺すって起こして来るので、抱きついてみた。
慌てる姿を想像したあたしはまだまだ子供だったのだ。
内田に女にされたはずのあたしはまだ本当には男を知らなかったのだ。

男女にきっかけなんていらない。
そして抱き合うのに理由なんか必要ないってことも知った。
だけど、どうしても言い訳は欲しくて私は今寝ぼけている。
だから起きたらいつものように笑ってほしい。
いつもの声で、いつもの距離で。

 あたしは卑怯で下劣な女になってしまったのかもしれなかった。
最後まで守るべき矜持のようなものを捨ててしまったのだから。
けれど、それでもいい。それでいいと思っている。聖女になんてもうなれないのは知っていたし、
この恋が叶うという選択肢がないのは、空が空であるように変わらず自然なことなのだから。
泡になったあたしはこの日、消えた。
今までよりもっとドロドロとしたものへと変化したのだ。
人を好きになるってきっとこういうことで、なりたかったはずの大人に私は恐怖を覚える。

大人は狂うように相手を愛せる。
大人は言葉もなく抱き合う方法を知っている。
大人は答えなんてなくても泣かない。

だけど決して正解のない問題を解き続けなければならない。
それはすごく甘くて、そして恐ろしいことだと思う。
けれど子供のあたしは今日も窒息しそうなほど満たされるために笑う。


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