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老後の暇は人生の敵?

「老後」という言葉の響きは決していいものではない。
老後という言葉にはハッキリとした定義もない。
ただ歳をとった後と言うだけだ。
しかし定年退職をして生活基盤を年金に頼り、これといった定職を持っていなければ世間的には老後生活を送っていると言われても仕方ない。

好きなことを日課にするのは簡単ではない

私のように定年退職した日から何年も経過すれば、定職と言えるような日課に憧れるようになる。
それは仕事をして金儲けがしたいというより、毎日忙しく充実した日々を過ごしたいといった理由からだ。

暇が人生を台無しにする

定年退職をサラリーマンの卒業だと考えれば、再就職などしてまた組織の中に入り込むことだけはしたくない。
誰が言い出したのかは知らないが第二の人生ともいう定年退職後の人生は紛れもなく最後の人生だ。
第三の人生がある訳ではない。
できれば「最後くらい好きにさせてくれ」と言いたいのは私だけではないだろう。

現に私は好きにさせて頂いているが、好きにすることと順風満帆な人生を送っていることは別物だ。
精神的な意味においても誰もが心豊かで安定した穏やかな生活を送れるわけではない。
好きにしているとは、ただ嫌なことをしていないというだけだ。

60歳も過ぎているのだから大きなお金を稼ぎたい訳でもなく、承認欲求を満たしたい訳でもない。

どんな最後の人生を夢見ているのかもハッキリせず、言語化できないようなモヤモヤした感情に満ちた毎日だった。
しかし年数と共に少しずつ見えてきたのはそのようなことを考えない日常だ。
言うなれば暇のない毎日だ。

こうしてほぼ毎日Noteを書いているのも、言い換えれば暇をもてあそびたくないだけだ。

昔キャバレーで仕事をしていた頃、そこの専務に聞いた話を思い出した。
「マネージャーの仕事はとにかく従業員に暇を与えないことだ」
「少しでも暇を与えるとすぐに辞めることを考えてしまう」
人は暇な時間があるとろくなことしか考えないというのがこの専務の言い分だ。

確かにそうだと思った。

もう半世紀も前の話だが、このポリシーはその後のサラリーマン人生のマネージメントでも教訓にしていたほどだ。

それを定年退職後の自分に当てはめると、定年退職して得た自由な時間こそが暇な時間でありネガティブな思考に支配される時間なのだと分かってきた。
暇な時間にポジティブなことを考えている時間の割合は少ないということだ。

毎日一貫したやることを見つけ日課にすることで暇を失くすことができる。
それが理想の最後の人生だ。

憧れの日課は現実的ではない!

「毎日好きなことをやって生きる」
そんな人生を送っている人は少数派だ。
いいのは分かっていても誰にでもできることではないからだ。

好きなことだと思って始めても日課にすれば継続できないのだ。
そもそも日課にすることで苦しみを伴うことが分かっていなかったのだ。

憧れと現実は違う。

例えばゴーギャンのように南の島にでも行って毎日絵をかいて暮らしたら楽しいだろうと想像はできるが、実際にやってみるとそんな日課は続くはずもないということも想像できる。

だいたい南の島で住めるほどの環境にある人の方が少ないだろう。

南の島に行けないなら、自宅で絵を書いて暮らす想像をしてみると現実的ではないことがよく分かる。

長年サラリーマンで人生を送った人には、世間から隔離されたような生活は耐えがたいのだ。
組織になれた人にとっては孤独を楽しむことすら難しい。
孤独に慣れて世間とも関わりを持たずにひたすら何かに没頭するには勇気と時間が必要だ。

しかし私は今も尚、そんな憧れの夢を追って生きている。

#最後の人生 #人生 #第二の人生 #夢 #定年退職 #老後

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