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朧月夜の河岸

 空を見上げると朧月。ゆらゆらとした雨雲の上を滑るように飛ぶ蝙蝠。蝙蝠の顔が拡大され、コアラのような微笑みでこちらを見つめる。
 子供が発砲スチロールを擦り合わせ、蝙蝠たちを狂わせる。軌道を外した連中が軒下にぶつかり落ちてゆく。
 誰かが傘をさしてまた閉じる。すぐ脇を走り抜けた男が線路下のトンネルを抜け、土手の上まで駈け上る。
 廃線となった線路には雑草がおいしげ、河川からの風に吹かれている。朧月は近くなったり遠くなったりして波を照らしている。
 夕餉の匂いがしてきて、子供と母親の声が聞こえる。
 土手に上って廃線の上に立つと、その平行線が微妙に曲がっていて、向こうの寺から線路が延びているような錯覚を覚える。
 線路を越えて下流の土手まで来ると、私はゆっくりと河の方に滑っていき、夜の岸辺に降り立った。
 夜が深まり風も冷たくなってきて小雨になってきた。
 今夜の天気は暴風雨になる元気もないだろう。地面を揺らす気力も残っていないだろう。河口が割れて大きな渦巻になることもないだろうし、土手が決壊して大洪水になることもないだろう。明日はいつものようにやってくるだろうし、死ぬまで地続きになっているだろう。
 私はここからどこかに帰るのだろうか。どこかに泊まらなくていいのだろうか。
 岸辺の土は柔らかく、その上に無造作に置かれた木材は釣り人用なのだろう。それを辿って先の先まで歩いてみると、そこは父方の叔父が酔っぱらって溺れた辺りだった。
 何かの祝いで久々に日本酒を飲んで帰った叔父は、家の方向とは逆の土手まできて、水嵩のある季節に落ちて溺れてしまったのだ。それほど飲みたいことがあったのだろう。
 ずぼーんと沈んで驚いたのか、観念したのか。懸命に助けを呼んだのか、酔って寒さを忘れて笑っていたのか。翌朝には白髪の歯抜け顔が静かに浮いていたことだろう。
 私は土手を振り向き、朧月で少しだけ見えている泥の上の板を確認し、雨に打たれながら長い道のりを戻っていった。


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