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「ゆるす」ってなんだろう。ゆるせる日がくることを願って。

私の母は「うつ病」だ。
私がそれを初めて知ったのは11歳のときだった。

私が11歳のとき、母は当時ずっと飲み続けていた薬を自己判断でやめ、薬の離脱症状なのかもともとの症状の悪化なのか、おかしくなってしまった。

しかし、祖父(母の父)が病院に連れていってくれて、母はわりとすぐに落ち着いたと思う。

薬が効きすぎて、母は布団から起き上がれなかったから、私は1週間くらい祖父母の家で過ごした。
でもその時点で母の精神状態は回復していたので、状況があまり掴めない年齢ながらに安心したのを覚えている。

1週間後、私は自宅に戻り、また平穏な日常に戻ることができた。

それからも時折母は薬をやめたり病院を変えたり、と「いまちょっとおかしいな……」と思う出来事はあったものの、それでも楽しく幸せな日々だった。

私が29歳になったとき、母はまた自己判断で薬を飲むのをやめた。
そのとき、以前と違ったのは祖父がもう車を運転できなくなっていたことだった。

能天気な私は「父が連れていってくれるだろう」と思い込み、しばらく様子見をすることにした。

これが間違いだった。
母は日に日に症状が悪化し、幻聴に悩まされ、暴れ回るようになった。

それからまあいろいろあったけど、3年後に非常によい病院を見つけ、私はなんとか母をそこに連れていくことができた。
いまもその病院にお世話になっている。ほんとうに感謝してもしきれない……。

母がおかしくなってしまっていた間も、通院を再開してから落ち着き始めたころも、たくさんたくさん母と話をした。
今までもたくさん話してきたつもりだったけど、実際は全然で、「私は、母をひとりの人間として見ていなかったな、向き合ってこなかったな」と気づいた。
母を「ひとりの女性」として見たとき、母の境遇を思いひどく悲しい気持ちになった。

母の育った家庭は決してあたたかいものではなく、話を聞くだけで暗い気持ちになってしまう……そんな家庭だった。

人として悪ではないものの、母の両親はいつも怒鳴り合いの喧嘩をし、父は暴力をふるい、母は過干渉で口うるさくすごく攻撃的だったという。
母の兄は若くして亡くなった。精神科のある病院に入院していたこともあったというし、おそらく自殺だったのだろう。
その詳細は、いまだ母には伝えられていない。
実の家族にもウソをついていたり、ごまかしたりしている、体裁や見栄ばかり気にする祖父母らしいなと思ってしまう。

現在、母の父……私の祖父は末期がんで要介護2からの入院、祖母は要介護2から要支援1に回復。
いまも性格は変わらず、身体は不自由そうにしながらもふたりは喧嘩ばかりしつづけるし、母のこともよく困らせている。

でも、難しいところなのが、私も母も祖父母にとても助けられて生きてきたということ。

母がもっとあたたかくて、親の怒鳴る声も皿の割れる音も聞こえない家庭で育っていたら、きっと病気にはならなかったのだろう。(きっと母の兄も……)
と思うものの、それだと、たぶん母は父と出会っていないし、私も生まれていない。
私ももっと優しくあたたかい祖父母だったらよかったなと何度も思ったが、それでも祖父母に助けられた経験は山ほどある。

だが……。要支援・要介護の祖父母が、私の助けがあればよりよい人生を歩めるであろうときに、私は気持ちよく手を貸せずにいる。

祖父母が母にもっと優しくしてくれていたら……。
私の母がうつ病じゃなかったら……。
あんな経験もすることなく生きてこれたのに……。

なんて、もういい大人なのに子どもじみた気持ちがふつふつとしてしまう。
ほんとのほんとは祖父母の力になれたらうれしいと思っているし、祖父母に喜んでもらいたいという気持ちはあるのに、できない。
こんな気持ちを抱くのは、人でなしなのではないかと落ち込む。

でも……できない。

きっと私は祖父母のことをゆるせずにいるのだ。

でも「ゆるす」ってなんだろう。

私はもうすぐ35歳になる。
母が病気になり薬を飲み始めた歳も、母の兄が死を選択した歳も、とうに超えた。

祖父母にはしばらく会っていない。
せめてもの……と思い、運転できない母のかわりに車を出したり、祖父母が必要なものを買いにいったりしている。

自分のことを「なんて心が狭いんだ」と思ってしまうが、母と幼いころの私を傷つけたふたりをどうしたらゆるせるのだろうと、今日ももがいている。

「ゆるすとはなにか」の答えも、いまも探しつづけている。

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