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エゴにならないためには、人を認めること

エゴイズム。
そうならないように、わたしはいつも心掛けている。

人に喜んでもらったり、頼ってもらったりすると嬉しい。どうすれば人に楽しんでもらえるか、どうすれば自分が人のためになれるか、そんなことを考えることも好きである。

しかし、それはその人が自ら望んだことに対して、自分がどう行動するかという話。人が望んでいないことを、いかにも望んでいるだろうという自分の基準で決めてしまっては、それはエゴイズム以外の何ものでもない。

確かに、自分の知らなかったことや認識の範疇にないことを、人から教わるという機会もある。そのような体験はとても刺激的であるし、知識を得るという点では非常にありがたい話である。

ただ、側から見て、
「ああした方が良い」「こうした方が良くなる」
と自分の経験から出た言葉だけを並べて人に伝えようとしても、それは伝わるどころかありがた迷惑である。自分の目しか持っていない我々人間は、どうしても自分本意の言葉を使いがちである。

そもそも提示している「良い」という条件そのものに、人との相違がある。幸せの定義が人それぞれ異なるように、「良い」という状態も一概には言えない。

その上に、その選択に対しての意思が上乗せされる。やるかやらないかという問題である。熱意を持って伝えたことに対して、やらないという選択をされると気分を害する人もいる。しかしそれでは本末転倒である。


それを知らずして、自分の意見を人に伝えようとするから

「良くなるのはわかったけどやりたくない」
「あなたとわたしは違うからする必要ない」

となるのである。


これを防ぐために、わたしは断定ではなく提案をする。

相手の意見や希望を聞きつつ、それにあった選択肢をいくつか提示して、予後予測を添える。

「わたしはこう思うのだけど、あなたはどう?」
「できることは協力するから、もしあなたがよかったらやってみない?」

という提案である。
そうすることで、自分の意見も伝えつつ、相手の選択を尊重できる。


人は誰でも自分の経験に偏った考え方を持ち、その経験によって言葉も発せられる。

しかし、人間は自分という体を持ちながら、他人のことを考えている時間の方が長いと思う。わたしも内省することはよくあるが、それ以外は他人や自分の外のことについて考えている時間が大半を占めている。

だからこそ、人のためと思って考えてしまうことも、自分の考え方に偏っている。
大切なのは、人の考えも認めつつ、自分の意見を述べること。
すべて自分の選択が正しいと思わず、自分と違う他人を認めることで、わたしは今日もエゴイズムを回避している。

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