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わたしがnoteの執筆で見出した意味

noteを書き始めたことに意味はなかった。だけど、書き続けるうちに気付いたことがある。当時のわたしは思いもしないような大切なことを、このnoteに気付かせてもらった。


わたしが文章を綴る理由。それは自分を知りたいから。
noteを始めた頃のわたしはそんなことを思っていた。そこに大した意味はなかった。日々、何を考えているのか。人やものに触れて何を感じるのか。どのようにして生きてきたのか。これからやりたいことは何なのか。何をして生きていきたいのか。

わたしにとって、綴ることが生きていることなのかもしれない。しかし、それを仕事にしたいだとか、人に読ませたいとかはあまり考えていない。

そりゃもちろん、読んでくださる人がいれば嬉しいし、たくさんのスキをいただいて喜んでいる自分もいる。

だけど、文章を綴るきっかけとなったのは、自分が日々生きているということを自分自身感じたかったから。noteという媒体にはこだわっていなかった。

最初は日記だった。毎日の予定とその日にあったことや感じたことを毎日綴っていた。誰にも読ませない自分だけの文章である。この形をこれからも続けるのだと思っていた。

しかし、友人がnoteを始めたというタイミングで、わたしもnoteでの執筆を始めてみた。それからというもの、内省も振り返りも表現もこの場所で行うようになった。特に目標や期限はない、だたの思いつきだった。

そうしているうちにわたしの中で徐々に変化してきたことがある。

物事を丁寧に考え、言葉の一つ一つを意識して捉えるようになった。思ったことや感じたことしか文章にはできないけれど、思ったことや感じたことすべてを文章にすることはできない。そう感じるようになった。

思考や感情は目に見えないけれど、それを形にしようとすれば何かしら表現の方法が必要になる。

わたしの場合は言葉だった。これが言葉でなくても、音でも絵でも動きでも構わない。ただ、一番身近だったのが言葉だったというだけ。

表現を始めてからというもの、わたしは人とのコミュニケーションのあり方を意識するようになっていた。自分の表現の仕方を見つめているうちに、人の表現の仕方や感じ方にも目を向けられるようになったのである。言葉の本質、説明の順序、メールや資料の作り方、受取手の思い。仕事や人間関係、ありとあらゆる場面で、無意識に人とのつながり方について考えることが増えた。それだけでも、表現することがわたしに与えた価値であり、意味であると思う。

書き始めた頃にはなかった意味がここでひとつ生まれた。
人とのつながりに対する丁寧さである。一つ一つの言葉を手のひらで優しく包み込むように、表情や感情を丁寧に読み取る。そして自分の想いを大切に伝える。言葉の伝え方は、相手に対する思いやりである。難しいカタカナ文字や専門用語は相手の頭にハテナを生み出してしまう。まとまっていない説明の仕方は、相手に話の組み立てを要求してしまう。理解の乏しい聞き方は、相手に不快感を与えてしまう。そのわずかなズレや不具合が人と人との亀裂を生むことは言うまでもない。だからこそ、言葉の元である心でつながっていかなければならない。そんな大切なことに気づかせてくれたのは、他の何でもない、noteでの継続した執筆である。この経験がわたしに気づかせてくれたものはとても大きい。

今後、この言葉たちがどんな展開を見せるのかはわたしにはわからない。ひょっとしたら、他にも意味が生まれるかもしれない。もしくは何も生まれないかもしれない。だけどそれでいい。書いているうちに他にやりたいことが見つかったら軌道修正するのもいい。どちらにしたって、書くことからしかわたしの人生は進まないのだから。

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