「気づき」が「気づき」に気づく?
相対界と絶対界に対する私のイメージ
相対界・・・人と比べて争ってばかりの苦しい世界。
絶対界・・・ただありのままの自分としてみんなと繋がれる幸せな世界。
その「絶対界」に行ってみたい!という私に「ちょっと待った!!」がかかった。
(相対界と絶対界のお話はこちら ↓)
師匠はおっしゃった。
「絶対界は目指すものでも探すものでもない。」
「絶対界を『探す対象』『目指す対象』として向こう側に置いてしまうと、どれだけがんばってもそこへは行けない。」
じゃあどうすればよいのかというと・・・?
「ただ観察するだけ」だと。
例えば「思考」を観察する。
「今私は何を考えているのか?」
そうすると、観察している「私」と観察されている「思考」が分かれていって、
あれ?「思考」が「私」だと思っていたけど、「思考」はあちらにある。じゃあこちらから見ている「私」はなんだ?ということになる。
でも、絶対界を目指そうとしたり、絶対界を探そうとしてしまうと、「私」は相対界に残ってしまうから、どんなに頑張っても絶対界に気づくことができない。
目指さずにただ「観察する」を続けていく。
ただ観る。ただ観察する。
自分の声、思考、感情、身体・・・それらをただただ観察する。
「今ドキッとしたな。」とか
「嫌なのにいいよってウソ言ったな。」とか
「イライラしてきたな。」とか
「お尻ふりながら鼻歌歌ってるな。」とか
「一生懸命言い訳を考えてるな。」とか
「疲れて飽きてうんざりしてきているな。」とか
「ずっと胸のあたりがモヤモヤしているな。」とか
「嬉しくてにやけが止まらないな。」とか・・・
すると、「思考」も「感情」も「身体」も、「私」だと思っていたけど、対象として観ているうちに、それは「私」からどんどん離れていって、「私」ではなかったと気づく。それはただの「現象」だったと・・・
あれあれ?じゃあ、「私」ってなんだ?
この、「思考」や「感情」や「身体」を観ている「私」はなにものだ?
そこに「なにものでもない私」「本来の私」が立ち現れる。
そしてその主体としての「本来の私」は、気づくといつのまにか絶対界に移行している。
・・・というより、「本来の私」というものは、すでにもともと絶対界にあったんだということに気づく。
これが
~「気づき」が「気づき」に気づく~ ということなのかな?
こちらの動画 ↓(18:50~)のお話から記事を書かせていただきました。
https://www.youtube.com/watch?v=ZEZ6rHVylqg
壇珠さんの「秘行」にも通じるお話と思われます。
お釈迦様の教え(スッタニパータより)にも通じるお話と思われます。
https://yumbe2525.hatenablog.com/entry/2018/08/30/203640
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