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ぼくが「できる人」を演じていたのは、孤独が怖かったからだった。

いつからだろうか「できる人」を演じるようになったのは。もちろん、「おれはできる人だ」と言わない。あまり主張もしない。
けれど、人に頼らず、弱みを見せず、自分ひとりで何かをすることが良いことであると思っていた。そうしなければいけないと思っていた。そうあろうとしていた。

いつからだろうか「かしこい人」を演じるようになったのは。当然、「おれはなんでも知っているよ」とは言わない。けれど、いろんなことを詳しく知っていることが評価されることであると思っていた。認められると思っていた。

これは、ぼくが目指したいものだっただろうか。ぼくが望む姿なのだろうか。

先日、「ラベリング」という方法で、自分の反応的な思考に自覚的になった。「ラベリング」とは、思い浮かぶ衝動に名前を付けて、その思いに「気づく」という方法だ。自覚することで、その衝動が、選択肢の一つであると認識することができるのだ。

同じように、ぼくは、日ごろの思考や行動について、名前を付けることにした。それが、「できますよ、ぼく」くんと、「しっていますよ、ぼく」くんだった。名前を付けてみると、自分自身の思考に距離をとって考えることができる。ぼくは、そのふたつの思いが、どうしてあらわれるのだろうと考えてみた。

認められたい。 それは、どうして?

仲間ではないといわれたくない。 それは、どうして?

自分に質問した。
そういう振る舞いをする思いに近づいて行った。すると、少しずつ、自分の根っこの部分が見えてきた。

自分の存在に意味がないって自覚したくない。意味があるといいたい。
輪の外にいたくない。そとにいるということを自覚したくない。

はじめて、この思いに気がついた。
ぼくは、「孤独」を恐れていたのだ。
生まれて初めて、この「孤独」という言葉と、思いがくっついた気がした。
仲間外れになりたくない。取り残されたくない。否定されたくない。
ぼくが恐れていたのは、ひとりであること、意味を持っていないひとりであるということに、気づいてしまうことだった。

ぼくはこのとき、はっきりと「孤独」というものを認識した。

この感情に気がついたとき、ぼくの矛盾したもの思いもわかってきた。
ぼくはよく、「みんなと話をしたい」と言う。仕事をよくするため、業績を向上するためになにをする?と聞かれたとき、すぐに思い浮かぶことであるし、そうしたいことだった。話して、話して、話して、ああでもない、こうでもないといいながら、時間を過ごして、形をつくっていきたい。

でも、「話したい」と言いつつも、過去、改善することはなかった。話す量は増えなかった。「話したくない」という思いが同時にある。「話す」には勇気がいることだった。ぼくは、話すことで、意見が合わないことを知りたくなかった。聞いてもらえないことに気づきたくなかった。受け入れてもらえないことを恐れていた。
だから、話したいというけれど、話したくなかった。

ぼくは、防御力を上げようとしていたのだろう。
この場にいるために、「できる」ように装い、「知っている」「思慮深い」ように行動していた。そうすることで、この場の中に「わたしが存在する意味」を、心の奥底から、ずっと主張していたのかもしれない。


この思いに気づいたとき、なんだか、自分が少しかわいらしく思えてきた。なんだ、そんなことを思っていたのか。しょうもないやつ。
できるやつじゃなくても、かしこくなくても、今できることをがんばればいいじゃない。否定されても、失敗しても、最終的に達成したいことができれば、それでいいじゃん。なあに、肩肘はってんだ。もっと気軽に、まわりの人とやっていけばいいじゃん。

そうか、「わからない」って言ってまわりの人に教えてもらっていいんだ。一緒にやってもいいんだ。知らなくても、そのときに、知ればいいんだ。今できなくても、できるようになればいいんだ。

ぼくは、孤独に気がついて、すごく気持ちが楽になった。

だから、「わからない」って、言うことにした。「できない」って、言うことにした。「助けて!いっしょにやろう!」と言うことにした。


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