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「この本がほしい」の感情の奥にある、欲望と選択

会社からの帰り道、欲しい本のことを思い出して、近くの書店に立ち寄った。Amazonに在庫がない書籍で、すぐに手に取りたいと思っていたからだ。
書店に入ると、順に話題書、新刊、ジャンルの棚を歩いた。一度で見つからなかったから、何度も往復した。隅から隅まで、指指しながら探した。けれど見つからなかった。
それで、Amazonの商品ページを出しながら、この商品の在庫はあるのかを聞いた。
「残念ながら在庫しておりません」
との答えを聞き、残念だなと思い、明日別の書店を探そうと決め、家路に着いた。

いつもの帰り道を歩きながら、自分の「ほしい」という思いの正体が気になってきた。どうして、すぐ欲しかったのだろうと気になってきたのだ。
すぐにほしいのはどうしてだろう。
この本を手にすることで得たいものはなんだろう。
どういう感情や気持ちや思考の変化を求めているのだろう。
ぼくは、ぼく自身の「ほしい」がわかっていなかった。

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最近、社内で「コーチング」の勉強会が定期的に開催されている。この前のテーマは「質問」だった。質問とはどういうものか、相手にどんな作用をもたらすのか、どんな質問の仕方があるのか、質問について話し、聞き、考えを深める時間だった。

この時間のテーマのひとつは、自主的に行動させる質問とその仕方だった。
このテーマを理解するためのワークがおもしろい。

そのワークはペアで行う。まず、AとBに分かれる。AはBに「今週末に食べたいもの」を聞く。そのあと、AはBに質問しかできない。このワークのゴールは、質問だけで、Bに「ほんとうに食べに行こう」と思わせることだ。

スタートの合図とともに、ぼくは相手にいろんな質問をした。どうしてそれが食べたいのか。どんな料理なのか。質問をして、話を聞くを繰り返した。
結局、相手はほんとうに行きたいとは思わなかったようだった。ぼくも質問されて、予定を調整してまで行こうとは思わなかった。

ワークのあと、お互いにフィードバックや感想を共有した。難しいねだとか、あの質問でどう思ったのかとか、あの質問はどんな意味?だとか、そんな話をした。

話していく中で、いくつか質問について気がついていく。
相手を動かそう思うと、「なんて質問しよう」とばかり考え、相手の話を聞かなくなる。詰問のようになる。だんだんとイエスノーで答えるような質問をしてしまう。質問の内容も、仕方も態度も、意識して初めて気がつくことばかりだ。

「自分はどういうときに、そのお店に行きたいと思うのか、行くと決めるのだろう」とファシリテーターが全体に問いを投げかけた。そこに、どういう質問をするとよいのかのヒントがある。
ぼくは、その前日に、紀伊國屋書店の地下にある、とんかつ屋で夜ご飯を食べたことを思い出した。ぼくは、どういう思いで、どんな目的で、なにを得たくてそこに行ったのだろうと、そのときの思考を振り返った。

トンカツが好きだ。口に入れたときの衣のサクっとした音と食感、同時にソースの香りと濡れた衣の感覚。ソースの酸味のある味と、旨味のあるお肉。細く切られた山盛りのキャベツと、小さなシジミがたっぷり入った味噌汁。ガッツリと食べられる。

だからと言って、そのおいしい記憶のみで、そのお店を選んだわけでもない。何気なく入ったのだけど、その何気なさにはなにか理由や意図があるはずだ。周りにあるたくさんのお店ではなく、そのお店に入ったのだから。

何度かそのお店に行ったことがあり、おいしさもわかっている。ご飯もキャベツも味噌汁もお代わりが自由なのも知っている。お腹いっぱい食べられる。ぼくは、安心できること、失敗しないことも判断の中にあったことに気がついた。

そう考えていくと、何気なく、なんとなくには、言葉にしていない、感覚や感情の記憶が隠れていることがわかってくる。判断軸やなにが好きなのか心地よいのか、なにをしたいのかが根底にあるのだ。そして、それによって選択している。

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普段、ぼくたちは、意識しないなかで選択をしている。今日朝、出勤するまでに、なにをしただろう。
着替えて、歯を磨いて、朝ごはんを食べて、時間になって家を出る。このたった小一時間の中で、膨大な選択をしているようだ。
なにを着るのか、歯を磨くのか否か、朝ごはんを食べるかどうか、どのテレビ番組を見るのか。何気ない行為の裏に選択がある。

人間の"選択"について心理学や経済学などいくつもの視点から考察する『選択の科学』では、日本人はアメリカ人に比べて選択している自覚が少ないという実験結果が紹介されている。
今日どんな選択をしてきたかという問いに対して、出てきた選択の数に大きな差があったそうだ。例えばアメリカ人は、「歯を磨く」という行為も「選択した」と考えている。一方で、日本人は数が出せない。

ぼくもこの本を読むまで、選択していたことに無自覚だった。

ちなみに、この差は、文化的な影響が、個人の思考に影響しているからだと考察していた。
集団主義的な環境では、世間が、親が、と選択の軸が自分ではないところにあることがあり、選択していることに自覚的でないようだ。

だけどそこには、言葉にできていない思いがあるのだ。
そこを辿っていくと、自分がなにを求めているのか、どう求めているのかのヒントがあるのかもしれない。
なにを食べるか、たった1つの選択の中に、わたしを知るきっかけがある。

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仕事帰り、あの本を手にすることで、なにを得たいのだろうと考えたのは、このワークショップがあったからだった。選択についての本を読んでいたからだった。

考えていくと、すぐにほしい理由はないと気がついた。
ぼくは、誰かの良いと思うもの、誰かが推薦するものは、どのようなものなのか確かめたかった。良いと思われるものを感じたかった。同じような思考を辿りたかった。どんな変化なのか体験したかった。それに、本を紹介する人と話したかったし、繋がりたかった。社会と繋がりたかった。
ただ、その「情報がほしい」だけではなかった。
「ほしい」は複合的だった。

選択をするときに、直感で、なんとなくと思ってしまうのは、たくさんの問いと思考が一瞬で駆け抜けていくからだろう。

そこに、1つ、普段考えない問いを立てて、どうしてほしいのか、選んだのかを考える。

そのすこしの行為が、自分の人生の主導権を自分に取り戻すことにつながるし、より自分のことを理解することにつながるのだろう。
本を買うことについて、選択について考えているとそんなことを感じる。

こうして、ぼくがnoteを書いているのも、ぼくが考えていることを言葉にしたかったし、読んでもらって少しでも反応がほしかったからだ。
さて、ぼくは「寝る」ことを選ぶよ。おやすみ。

#日記 #読書 #コーチング #エッセイ


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