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『ウィッシュ』〜挫折なきヒロインに魅力はない〜

今回はディズニー最新作としても話題の『ウィッシュ』
こちらを劇場にて鑑賞してまいりましたので、その感想を語りたいと思います。


『ウィッシュ』について

基本データ

  • 監督 クリス・バック/ファウン・ヴィーラスンソーン

  • 脚本 ジェニファー・リー/アリソン・ムーア

  • 出演者 アリアナ・デボーズ/クリス・パイン/アラン・テュディック

あらすじ

100年のすべてが、この物語に―みんなの心が熱くなる、魔法のミュージカル体験!

願いが叶う魔法の王国に暮らす少女アーシャの願いは、100歳になる祖父の願いが叶うこと。だが、すべての“願い”は魔法を操る王様に支配されているという衝撃の真実を彼女は知ってしまう。
みんなの願いを取り戻したいという、ひたむきな思いに応えたのは、“願い星”のスター
空から舞い降りたスターと、相棒である子ヤギのバレンティノと共に、アーシャは立ち上がる。
「願いが、私を強くする」
──願い星に選ばれた少女アーシャが、王国に巻き起こす奇跡とは…?

ヒロイン・アーシャの声優は『ウエスト・サイド・ストーリー』で第94回アカデミー賞助演女優賞を受賞したアリアナ・デボーズ。
60回グラミー賞主要2部門にノミネートし、ジャスティン・ビーバー、エド・シーランら有名アーティストへの楽曲提供をするなど、世界的ヒット・ソング・ライター兼アーティストとして活躍しているジュリア・マイケルズが、音楽を担当。

公式サイトより引用


大きな問題を抱えた作劇

さて、ディズニー100周年を記念し、ディズニーの一丁一番地とも言える「長編アニメーション」である『ウィッシュ』

ここまでPRなどでは「ディズニー100年の歴史」の到達点として告知されてきた今作品。

というのもテーマが「ウィッシュ=願い」という。
ここまでディズニーはその歴史において「願い」に関して語り続けてきたということもあり、しかも王道の「プリンセスストーリー」
これが一旦の総決算的な作品になる、そんな期待を膨らませて公開された。

そんな今作品だが、まず僕なりの結論を先に伝えるならば「大きな問題」を抱えている、と言わなければならない。
正直に言えば「僕には合わない作品」だった。

さて、今回はそんな問題点の指摘をしつつ、映画を振り返っていきたい。

特殊な世界観

今作の主題である「ウィッシュ=願い」
当然作品内で大きな問題点になるはこの「願い」についてだ。

今作の舞台となる「ロサス王国」では、国民から慕われる魔法使いであり、王である「マグニフィコ」によって、18歳になると国民は「願い」を王に差し出す。
そして時折行われる儀式によって国民は「願い」を魔法で叶えてもらえる、そんな時を夢見て国民は彼を支持している。

今作の主人公「アーシャ」もそんな支持者の1人だ。
しかし、序盤で明かされるが、王は全ての「願い」を叶えるのではなく、あくまで「国」のためになる「願い」しか叶えない。
反乱のリスクや国家のためにならないと判断された「願い」は王に奪われたままになるのだ(願いを差し出すと、国民はその内容を忘れてしまう)。

ここで明かされるのは、この世界が冒頭は「ユートピア」であるかのように描かれるが、実像は「ディストピア」であり「管理社会」であることだ。

今作はそんなディストピアを打ち倒すアーシャの姿を描く、まさに「革命」の物語である。

さて、そんな今作だが、問題点が大きく3つあると言える。
一つは「マグニフィコ」が果たして、一方的に倒される存在でいいのか。
もう一つは、「アーシャ」の行動理由が全く見えてこない点。
最後にアーシャが挫折しない点だ。

ヴィランであるマグニフィコ

今作のヴィランであるマグニフィコは国民の「願い」を管理して、それを実質人質にしており、時折叶える「願い」を見せて国民を支配している。

物語の冒頭、アーシャのナレーションで描かれる「本」の中で、彼は元々は「願い」を信じる純粋な人物だったが、それが覆される目に遭い、思想が歪んだことが描かれる。
作中の描写を見ると、故郷で「家族」を盗賊によって殺害されたことも描かれている。

そのため2度と悲劇が起こらぬように、人々の「願い」を奪うことにしたのだ。

そもそも「願い」とは人を争わせるキッカケになるものだとも言える。
盗賊もなぜマグニフィコたちを狙ったのか定かではないが、その中に例えば「裕福になりたい」などという彼らなりの「願い」があったのかも知れない。
つまりマグニフィコは他人の「願い」で不幸になった過去を持つとも言える。

そんな過去を繰り返してはいけない。
だからこそ、彼が「願い」を恐れるのにはきちんと理由がある。

今作はアーシャが「願い」とは「いいこと」であるという信念のもとマグニフィコと対立する。
だが考えてみれば、現実問題としては「願い」は「いいこと」だけではない、それも事実だ。

誰かの「願い」が誰かを傷つけることはあるし、誰かの「願い」が叶うことで、誰かの「願い」が叶わないこともある。
ある意味でマグニフィコは「願い」で傷つき、そして思想が湾曲した存在なのだ。
つまり「願い」の負の側面を一身に背負った存在とも言える。

物語の構成上、彼がヴィランであることは問題はないのだが、今作は「願い」の「いい面」「悪い面」という二つの面を深堀りする、つまりこれまでのディズニー作品の歴史では触れられてこなかった、「願い論」的なものを描写することが出来る、非常にいい題材だったとも言える。

そしてそれは現実に起きている「争い」の根本にあるものだとも言えるし、自分の「願い」のために他者を「殺す」そんな現実もあるからこそ、今描くべきテーマとして最適なものだったはず。

しかし映画としては、一方的に「願い」の「いい面」をアーシャが掲げ、マグニフィコを一方的に倒す、あまりにも独善的な結論に至るのだ。

さらに問題は、実は主人公のアーシャにもある。
この作品では主役であるはずの彼女の行動に感情移入ができないのだ。

観客が感情移入できないアーシャ

さて、今作の主人公アーシャ。
個人的に今作でマグニフィコのことを考えてしまう理由としては、「歪んだなりの理由」がある彼に対して、アーシャに感情移入する余地があまりにも乏しいことが原因だ。

例えば「願い」がテーマの今作で彼女の「願い」とはなんだったのか?
恐らく序盤の流れや、オチの流れを見るに「魔法使い」になることが「願い」だったのかな?
とは思うのだが、彼女自身がそのことを口にはしない。

「願いは素晴らしい」と声たかに叫ぶものの、そこに具体性はまるでない。つまりヴィラン側の主義主張に主人公が明確な反論を示せていないのだ。

彼女の掲げる思想や思考が、あまりにも抽象的すぎるし、不明瞭すぎる。
それがアーシャへの感情移入を妨げているのだ。

この構図はまさに『ガンダムSEED DESTENY』の最高議長の掲げた「ディステニープラン」に対して、主人公キラ達が反論を持ち合わせていなかった違和感と通ずるものがある。
というか、今作の構図は「願い」を奪うという点では非常に「SEED  DESTENY」と類似点が多く、両作品が同様の問題点を抱えているというのが非常に興味深い点ではある。

ちなみにとある方の意見で面白いものがあったので一部抜粋したい。

私はアーシャに感情移入しづらかったです
アーシャが、おじいちゃんとお母さんの願いだけをまず取り返すというのも少し引っかかっちゃいました
吹き替えはめちゃ良かったですが、字幕も見てみたい!!!

スタンドFMレターより一部抜粋

特に二行目の部分は「確かに」と膝を打たされた。
彼女はそもそも、祖父の願いを叶えてほしいと王に頼むし、持ち帰るのは家族の「願い」だけ。
つまり自分勝手な行動が目立つとも言えるのだ。

そこからなし崩し的に、国民全ての「願い」の解放を目指すのだが、その動機も非常に不明瞭だ。
だが、これは改善もできる。
例えばアーシャの子供時代の描写を冒頭に付け足して、彼女の「願い」は「他人の願いを叶えるマグニフィコ王のようになりたい」というようなものにする。
すると実際に信じていた王が「願いを縛りつけている」ことを知る。
それはアーシャが王に対立する強い動機になったはずだ。

だが、問題点はそれだけではない。
大きな問題がまだ今作にはある。
それは「アーシャの挫折」が描かれないことだ。

挫折を描かないヒロインに、生まれぬ魅力

我々観客が映画ないし、物語を見て主人公に感情移入できるのは「挫折」する姿があるからだ。
困難に一度は打ちひしがれるが、「それでも」と立ち上がる。
そんな姿に観客は心動かされ、感情移入する。

今作でヴィランであるマグニフィコを推す声が大きいのは、実は彼が作中挫折して、そこから手段を間違えながらも立ち上がっていることが描かれているからなのではないだろうか?

しかし今作でアーシャは「挫折」しない。
前述の通り「願いはいいこと」であるという前提は彼女の中で一度も揺らぐことはないのだ。

もちろん、彼女にとってそれが前提であることは問題ない、しかし近年のヒットしているディズニー作品は、常に「信じていることが揺らぐ」という挫折を味わい、そこから「それでも」と立ち上がるのだ。

『アナと雪の女王』ならば、アナがそうだ。
ハンスとの結婚、愛があれば幸せ、そんな彼女が常に胸に秘めていた「願い」が叩き壊されながら、彼女が立ち上がりエルサを救う姿こそ、素晴らしいのではないか?

『シュガーラッシュ』のラルフにしても、「ヒーローメダル」があれば、みんなに認めてもらえる、そう思っていたが、いざそれを手に入れても虚しさだけに支配される。
そこからヴァネロペを救い、彼なりの自己実現を達成する。

こうした姿が描かれた作品に皆、心打たれてきたのではないのか?

しかし今作はそこがまるで揺るぐことはない。
例えば作劇の中で一度はアーシャが「願い」の「負の面」と直面し、一度はマグニフィコの思想に傾倒する、しかし「それは違う」と立ち直り、再び立ち向かうなど、やりようはいくらでもある。
だが現状のままでは、キャラクターに魅力なんて生まれようもないのだ。

そもそも今作のアーシャは作り手が伝えたいメッセージを観客に「伝える」ためだけに動いている。
言い換えれば、作り手の都合だけで動いているに過ぎない。
そのキャラクターに魅力というものが生まれるのだろうか?
キャラクターの深掘りが不足しているという指摘も多い今作だが、そもそも主人公がこの有様なのだから、他のキャラクターも言わずもがなだ。

例えば7人の小人からインスパイアされた彼女の7人の友達。
それぞれが、それぞれに印象が薄い。
多人数キャラを動かすという意味では『ミラベルと魔法だらけの家』の個性豊かな「マドリカル家」の面々の魅力と比較しても、明らかに今作は弱い。
言わずもがな「マドリガル家」の面々は、それぞれに作中で「挫折」を味わい感情移入できる余地が多く用意されていた。
しかし、今作ではそれがない。

唯一裏切りという行為をするサイモン。
彼だけはドラマを生み出しそうなキャラだったが、「こいつ裏切るな」と観客が思った、次のシーンですぐに裏切っており全くタメがない。
これはストーリーテリングとしても全く面白みもない。

ここも演出の問題で、例えば彼は仲間の中でもアーシャと仲が良い。
裏切るはずなんてない、そうした要素を一つ置いておく、そして裏切るまで少し間を置く。
すると「裏切られた」ことがショックな出来事として、アーシャに降りかかる。
するとアーシャは一度は信じてた友達に裏切られた、こうしたショックを与えることで、彼女に感情移入しやすくさせることも可能なのだ。

とかく「願いはいいこと」と言い続けるアーシャ。
しかし彼女が、それを信じる理由などの描写が皆無であり、アーシャに感情移入できないというのは、作品として非常に大きなマイナスではないだろうか?

そもそものコンセプトから見ても過剰なファンサ

これまで映画の作りとしての問題点を指摘したが、もう一つ今作品があまりにも「ファンサ」をし過ぎている点も指摘しなければならない。

そもそも、今作は「どのディズニー作品よりも前の作品のつもりで制作している」らしい・・・。
その作品が作中で過去作の「オマージュ」を繰り返したり、過去作のキャラクターをもじったような存在を出している。
そこに非常に違和感を覚えた。
そもそも、原初の物語として制作された作品が、これまでの作品の歴史の上にあることを前提としているのは、あまりにもコンセプトとかけ離れている。

ただ、100周年だからそこは「お祭り感覚」として五億歩譲って許したとて、ではそのオマージュがきちんと「作品の中で意味があるのか?」と問われれば、全く意味もなければ、ただオマージュしているだけにしかなっていない。
例えば『SW EP7 フォースの覚醒』で『アラジン』の「僕を信じろ」という名シーンがオマージュされている。
しかし、それはただのオマージュではなく、レイという主人公のキャラクター描写としてきちんと成立しているのだ。

つまりオマージュとは、きちんと作品において「意味がある」ものでなければ、それはただの懐古ファンへの目配せでしかない。
そんなものはただの「ファンサ」だ。

厳しいことを言えば、今作で話題になっている楽曲「誰もがスター」


この楽曲は過去作の声優が歌唱しているなどで話題だ。
確かに「過去作のキャストが出ているからそのシーンが素晴らしい」
それはファン心理として理解はできるが、それをもって今作が素晴らしい。となるはずがない。
楽しみの一つとして、「あそこは、〇〇が出ている」というものはあってもいいが、それがあるから「作品がいい」なんてことにならない。
つまり「ファンサ」はあくまで「ファンサ」でしかない。
あくまで「作品」が大切なのだ。

まとめ

ということで『ウィッシュ』
個人的には大変不満があるし、作劇として全く上手くない。
と断言せざるを得ない。
もちろん前述したようにマグニフィコの存在を活かせば、「願い」に関してもっと有意義な議論ができる可能性はあっただけに、残念だと言わさるを得ない。

そもそも最大の問題は、制作側が語りたことを伝える為だけの装置に成り下がっている「キャラクター」たちに魅力は生まれないことだ。
今作は「鑑賞後の観客の内面に伝えたいメッセージ」それらを全て説明しているに過ぎない。
「願い事は大切」「自分の願いは自分のもの」というメッセージそのものは正しくは聞こえるから、確かに「素晴らしかった」と高評価する声もあるのだろうが、逆に言えばそれ以上の感情をこの映画からは感じ取ることもできない。
『アナと雪の女王』がなぜあそこまでヒットし、人の心を掴んだのか?
それは色々な要因があるが、例えば「ありのままで」という歌唱シーンに様々な感情揺さぶる要素があったからだ。
しかもそれらは、鑑賞後に僕らの内面で熟成された感情なのだ。
決して作品内で「懇切丁寧」と物語から直接説明されたからではないはずだ。
そのことを思い出してほしい。



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